ドン・ムラコ
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ドン・ムラコ
1983年
プロフィール
リングネームドン・ムラコ
ザ・マグニフィセント・ムラコ
"ザ・ロック " ドン・ムラコ
ドン・モロー
赤鬼
本名ドナルド・ムラコ
ニックネーム虎鮫
身長186cm
体重120kg(全盛時)
誕生日 (1949-09-10) 1949年9月10日(74歳)
出身地 アメリカ合衆国
ハワイ州オアフ島
サンセット・ビーチ
スポーツ歴レスリング
アメリカンフットボール
サーフィン
トレーナーレイ・スティーブンス
イワン・コロフ
デビュー1970年
引退2003年
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ドン・ムラコ("The Magnificent" Don Muraco、本名:Donald Muraco、1949年9月10日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーハワイ州オアフ島のサンセット・ビーチ出身。

1980年代前半を全盛期に、主戦場のWWFにてボブ・バックランドペドロ・モラレスジミー・スヌーカハルク・ホーガンリッキー・スティムボートらトップスターと抗争を展開した[1][2]
来歴

ハワイでは学生時代にレスリングアメリカンフットボールで実績を築く一方、サーフィンの名手としても知られたという[3]1970年オレゴンワシントンなど太平洋岸北西部を拠点とするNWAのパシフィック・ノースウエスト・レスリングにて、ドン・モロー(Don Morrow)の名義でデビュー[4]

その後、ドン・ムラコ(Don Muraco)のリングネームバーン・ガニアAWAにてキャリアを積み、1971年11月には、当時AWAと提携していた国際プロレスに初来日[5](来日時の表記はドン・モロッコ)。シングルマッチではミスター珍寺西勇からは勝利を収めたが、サンダー杉山大剛鉄之助には敗退した[6]

AWAでは若手のベビーフェイスとしてビル・ロビンソンのパートナーにも起用され、ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座に挑戦、テキサス・アウトローズとも対戦した[7]。また、後に名勝負を繰り広げることになるラニ・ケアロハことジミー・スヌーカとも度々タッグを組んだ[8]

1974年からはカリフォルニアの各テリトリーを転戦し、ロサンゼルスでは1975年5月2日、前王者グレッグ・バレンタインの返上で空位となっていたNWAアメリカス・ヘビー級王座をトーナメントに優勝して獲得[9]サンフランシスコでは1976年3月24日、同地区認定のNWA世界タッグ王座ペドロ・モラレス&パット・パターソンから奪取した[10]。デビュー以来ベビーフェイスのポジションにいたが、サンフランシスコではヒールターンを行い、同じハワイ出身のミスター・フジマサ斎藤ともタッグを組んでいる[11]

1977年ニュージーランドに遠征し、ジョン・ダ・シルバを下して英連邦ヘビー級王座を獲得、同郷の大先輩キング・カーティス・イヤウケアともタイトルを争った[12]。同年7月には全日本プロレスに来日している[13]1978年4月1日には古巣のサンフランシスコにて、フラッグシップ・タイトルのUSヘビー級王座をディーン・ホーから奪取[14]。地元のハワイではベビーフェイスに戻り、同年6月21日にバディ・ローズ、9月20日にトーア・カマタを破り、NWAハワイ・ヘビー級王座を2回獲得した[15]。ハワイでは9月にジョン・スタッドからパシフィック・インターナショナル・ヘビー級王座を奪取したともされる[16]

1979年より南部フロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)を主戦場に、ハワイのビーチにたむろするゴロツキをイメージしたヒールとなって活動。ソニー・キングマネージャーに迎え、6月6日にジョー・ルダックと組んでスティーブ・カーン&マイク・グラハムからUSタッグ王座を奪取[17]。以降、10月の全日本プロレスへの再来日[18]を経て、1980年3月26日にはマニー・フェルナンデスを下してNWAフロリダ・ヘビー級王座を獲得している[19]。その後もフロリダではサー・オリバー・フンパーディンクをマネージャーに、ダスティ・ローデスをはじめジャック・ブリスコバグジー・マグローと抗争を展開した[20]

1981年よりWWFに登場して、3月にはWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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