ドン・パスクワーレ
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『ドン・パスクワーレ』(イタリア語: Don Pasquale)は、ガエターノ・ドニゼッティ作曲の全3幕のオペラ・ブッファで、リブレットはジョヴァンニ・ルッフィーノ(英語版)がステファーノ・パヴェージ(英語版)のオペラ『マルカントニオ殿(英語版)』(1810年)のためにアンジェロ・アネッリ(英語版)が書いたリブレットを基に作成した。『ドン・パスクァーレ』とも表記される。1843年1月3日パリのイタリア劇場(英語版、フランス語版)(ヴァンタドゥール劇場(英語版))にて初演された[1]
概要ルッフィーノ

本作はオペラ・ブッファとしてはドニゼッティ最後の作品で、作曲当時、45歳で、この5年後に彼は世を去ることになる[2]永竹由幸は「物語がドン・パスクワーレにあまりに可哀そうな感があるが、純粋に音楽的な面から見ればドニゼッティの全作品のうちで最も価値の高い曲の一つ。オペラ・ブッファとしても19世紀前半の最後の名曲」と評している[3]ジュリア・グリジ

『ラルース世界音楽事典』によれば、このシナリオの骨組みにはほとんど独創性は見られないものの、魅力的な細部に溢れている台本を基にドニゼッティは彼の陽気な音楽のうちの最良のものを、より一般的に言えばイタリアのオペラ・ブッファの傑作の一つを書いたのである。彼の洗練された音楽語法は4人の主な登場人物に因習を完全に逸脱した生気と明快さを与えている。このようにして、ノリーナは抗し難い魅力をもってオペラ全体に幅を利かせ、一方では、類を見ないほど素晴らしい旋律のインスピレーションが、真実の詩情の輝きをもってエルネストを取り囲んでいるのである[4]。ドニゼッティが本作をわずか2週間で作曲したことはよく知られている[注釈 1]。これほどの速筆が可能だったことについては、これはドニゼッティ特有の理由によって説明できる。つまり、彼は少年時代に完全な音楽構造で、物事を考えるよう訓練されていただけでなく、劇場での長い経験、つまり、本作は彼の64作目のオペラであると言う利点を持っていた。そして、彼は破棄した幾つかの作品からの二重唱、サロンのための歌曲、ある貴婦人のための作品集に寄せたワルツ(3幕の召使のための合唱)といった本来ほかの作品のために作曲した音楽を数多く書き直して本作に取り込んだ。しかし、このような楽曲の出どころの多様性は非難には当たらない。ドニゼッティは非凡な集中力をもって作曲し、新たに作曲したものと改作したものが入り混じった音楽に新鮮さと刺激的な味わいを与えることができたからである[5]

グラウトによれば、「ドニゼッティの最も優れた喜劇的作品は『愛の妙薬』(1832年)、『ドン・パスクワーレ』(1843年)、フランス風オペラ・コミック連隊の娘』(1846年)である。このうち、本作は完全にオペラ・ブッファの伝統に立つ作品で、ロッシーニの『セビリアの理髪師』(1816年)と好一対をなしている」[6]
初演とその後

初演はパリのイタリア劇場のスター歌手4人組によって披露されるとすぐに成功を収め、本作は極めて急速なペースでヨーロッパ全土を駆け巡った。その人気は弱まることはなかった[1]。本作とベッリーニの『清教徒』はどちらもイタリア語オペラながら、フランスの首都で初演されていることが着目される。イタリア劇場ではイタリア語オペラをイタリア語のまま上演しており、パリのオペラ・ファンは母語のオペラに加えて、イタリア語オペラを日常的に鑑賞することができたので、作曲家だけでなく、演奏家も自然とパリにあつまったのである[注釈 2][8]。イタリア初演は1843年4月17日ミラノスカラ座で上演された[1]イギリス初演は1843年6月29日ロンドン ハー・マジェスティーズ劇場でパリの初演時からタンブリーニからフォルナザーリに代わり、その他は同じ出演者によって上演された。アメリカ初演は1845年1月7日ニューオリンズのオルレアン劇場(英語版)にて行われた。配役はカルヴェ、ギャリー、クエリオら、指揮はプレヴォストであった[9]。日本初演は1961年4月3日産経ホールにて、二期会によって行われた。配役はドン・パスクワーレ:栗本正、ノリーナ:柴田喜代子、エルネスト:中村健、マラテスタ:立川澄人、指揮は森正、演出はヘルマン・ウーハーペニッヒ、演奏はイムペリアル・フィルハーモニー交響楽団、二期会合唱団であった[10][11][注釈 3]
音楽ドニゼッティ

『新グローヴ オペラ事典』によれば「本作の特色はレチタティーヴォの自然な旋律美である。本作ではそれまでオペラ・ブッファと結びつけられてきた伝統的なチェンバロを用いるのではなく、弦楽の伴奏を伴っている。その他の特色はノリーナとマラテスタの二重唱は2つのテンポによるにも拘らず、実際には第二部分における第一部分からの旋律の回想や、一方から他方への和声的な反響(両方ともヘ長調)の効果により、喜劇的な陽気さが途切れることなく徐々に流れ出していく。第2幕では次から次に展開するひとまとまりの自然なつながりによって、パスクワーレの登場から結末に至るまで個別の楽曲という印象を与えることなく、いかにも自然な音楽的連続性を作り上げている。この自然さはノリーナとパスクワーレが出くわす第3幕冒頭にも生命を吹き込む。ここで彼女が「あっちへいってよ、ねえ、あなた」と歌うワルツの旋律は簡潔ではあるが、その簡潔さは、この旋律を彼女のキャラクターにとって、その瞬間にはそれ以上考えられないようなものにしている。さらに、ユーモアと皮肉たっぷりの優しさ以外の何物も混ざっていないという点で、ドニゼッティの喜劇様式の精髄を見ることができる」[14]

岸純信は「名歌手4人を確保したドニゼッティはこのストーリーのもつ明るさと現実味を、難しい声楽技巧をふんだんに用いた旋律美で華やかに彩るべく、思う存分腕を振るった。特に、テノール役のエルネストは、音域が全般的に非常に高く設定された上で、トランペット序奏で名高い第1幕のアリアにおけるドラマティックなー大袈裟なまでの?悲嘆ぶりから第3幕で歌われるセレナードの繊細な美しさまで、実に幅広い感情表現を要求される難役である。音楽面では他にも、ノリーナとドン・パスクワーレの第3幕での二重唱で、男を完全に手玉にとった様子がワルツの軽快なリズムで描写される個所や第2幕の三重唱で、老人と対面したヒロインが〈観てて御覧なさいよ〉と短調のフレーズで傍白する部分のスパイシーな味わいなど、近代的な手法がそこかしこで効果を発揮する一方で、第2幕のフィナーレのようにバス歌手が早口の妙技を見せるというロッシーニ的な敏捷な展開のアンサンブルなど、従来のオペラ・ブッファの書法もきちんと活かされており、聴き応えのあるものになっている」[15]
筋立て

河野典子は「若さというものは、残酷なことを平気でさせる。この物語で振り回される70歳のドン・パスクワーレの心の痛みが理解できるのは、自分がその年代になった時でしかないのだろう。若者たちが、自分たちがパスクワーレにした仕打ちを〈あまりに残酷なことをした〉と思い出すのは何時のことだろうか。」と冷静な見解を示している[2]


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