『ドン・カルロ』(Don Carlo)は、ジュゼッペ・ヴェルディ作曲によるオペラ。パリ・オペラ座の依頼により、1865年から1866年にかけて作曲、全5幕のオペラとして1867年3月にオペラ座にて初演した(フランス語では『ドン・カルロス』Don Carlos)。
ヴェルディの23作目のオペラ(ヴェルディの創作期間の中では中期の作品に分類される)。原作はフリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲『ドン・カルロス』(1787年作)。 16世紀のスペインを舞台に、スペイン国王フィリッポ2世(バス/実在のスペイン国王フェリペ2世)と若き王妃エリザベッタ(ソプラノ)、スペイン王子ドン・カルロ(テノール)、王子の親友ロドリーゴ侯爵(バリトン)、王子を愛する女官エボリ公女(メゾ・ソプラノ)、カトリック教会の権力者・宗教裁判長(バス)たち多彩な登場人物が繰り広げる愛と政治をめぐる葛藤を壮大で重厚な音楽によって描いている(役名はイタリア語版による。フランス語版では、それぞれフィリップ、エリザベート、ドン・カルロス、ロドリーグ、エボリ)。 フランスのグランド・オペラの形式で書かれたこともあり、設定が大規模で、充実した出演者を多数必要とする。そのため、現代では採算上の問題から祝祭的な時期などでなければ上演が難しく、ヴェルディの他作品に比べて上演機会は多くないが、重厚な音楽によってヴェルディ中期の傑作として高く評価されている。 オリジナルはむろんフランス語だが、初演の同年6月、ロンドンでイタリア語による初演が行なわれて成功し、また同年10月にはボローニャでイタリア初演となってこちらも成功。その後もたびたびイタリア語で上演され、その際ヴェルディも再三にわたって曲を改訂してより上質な上演を目指してきたため、現在ではイタリア語版『ドン・カルロ』の方が多く上演される。 低声歌手の活躍する歌劇として知られ(題名役はテノールだが)、フィリッポやロドリーゴ、エボリには難曲ながら魅力的なアリアや、深く内面を語る音楽が与えられていて、低声歌手たちの演唱の充実ぶりが上演全体の成否に大きく関わっており、それぞれの役はイタリア・オペラをレパートリーとする低声歌手にとって目標ともなる大役である。 このオペラにおいては二つの公的な対立と幾つかの個人的葛藤によって構成されている。一つ目の対立は宗教界における旧教と新教の対立であり、スペインはカトリック教の有力な勢力であるのでフィリッポ2世と大審問官(宗教裁判長)がこれにあたる。一方、フランドル地方は新教徒が多く、ポーザ候ロドリーゴとドン・カルロがこちらの代表となる。この宗教対立は当時のフランスではマイアベーアの『ユグノー教徒』、『預言者』やジャック・アレヴィの『ユダヤの女』などで好んで採り上げられ、いずれもヒットしていた。二つ目の対立は政治権力(フィリッポ2世)と宗教権力(宗教裁判長)だが、当時の状況では後者の方が明らかに強かったことが分かる。個人的葛藤はカルロとエリザベッタの宿命的恋、エボリ公女の嫉妬、フィリッポ2世の妻との不仲、フィリッポ2世とエボリ公女の不倫、カルロとロドリーゴの友情である。こういった個人的葛藤が重々しく展開される。この点では『オテロ』と双璧だが、オテロでは彼個人の問題として進行するが、『ドン・カルロ』では主役たち全員が異なった対象と苦闘し、男性は英雄として挫折し、女性は愛のために身を滅ぼしていくのである。[1] 1865年のオペラ座からの依頼は、1867年にパリ開催が決定していた万国博覧会にあわせて上演するためのグランド・オペラであった。オペラ座の運営方法などに不満をもっていたヴェルディは最初申し出を断わったが、オペラ座総監督エミール・ペラン(1864年総監督就任)はヴェルディに様々な題材を辛抱強く提供して作曲を打診、結局ヴェルディはペランが候補に挙げていたひとつ『ドン・カルロス』の作曲に同意、1866年6月までの完成という条件で契約に応じた。 ヴェルディは既に1847年に『イェルサレム』( Jerusalem 台本はベテラン作家フランソワ・ジョセフ・メリが手がけることに決まったが、メリは着手直後に病死してしまい、メリの秘書で、義理の息子でもあったカミーユ・デュ・ロクル( Camille du Locle これらの出来事を経て『ドン・カルロス』は1867年3月11日、フランス皇帝ナポレオン3世夫妻を迎え、オペラ座にて初演を迎えたのだったが、ウジェニー皇后(スペイン出身、熱心なカトリック信者と伝えられる)が内容に不快感を示して途中で席を立ってしまったこともあり、初演は失敗に終わってしまい、この作品でもヴェルディがパリでの決定的成功を得ることはかなわなかった。ヴェルディがこの歌劇の作曲者として評価されるのは、3か月後のロンドン上演の成功まで待たねばならなかった。 主な版は以上のようになっており、現在の上演の際によく用いられるのは 2.、 5.、 6.の版。最後の版は序幕がないのでオーケストラの倍になるギャラ対策で3時間15分以内になり、中規模の歌劇場でも良く演奏される。幾つかの版を組み合わせての上演も行なわれているため、どの版も決定版としては位置づけられない状態といえるかもしれない。 イタリア語による上演が一般的だが、この作品の当初作曲家が意図したものはどのようなものなのかという芸術的興味は尽きるものではないであろう。特に作品が傑作であれば、尚更なのではないだろうか。このような背景もあり、時折フランス語による『ドン・カルロス』の上演が行われる。近年は特に19世紀のフランスにおいてイタリア人の作曲家がフランス語で作曲したグランド・オペラの甦演や復活上演が目立ってきている。例えば、ロッシーニの『ギヨーム・テル』( Guillaume Tell
内容
ドラマにおけるテーマ
初演当時の状況
さまざまな版イタリア語5幕版の台本表紙。1869年フィレンツェ公演のもので、内容的には「イタリア初演版」とほぼ同じ
フランス語原典版初演のために作曲された版。上記の出来事により、第4幕第1場でのエリザベッタとエボリの二重唱などがカットされ、原典版そのままの形で上演されることはなかった。この版はウィーン国立歌劇場で蘇生演奏された際、演奏時間が4時間以上かかった。
フランス語初演版(全5幕)カットを経て初演に使われた版。以上の版はグランド・オペラの習慣により第3幕にバレエ音楽が挿入されていた。
イタリア初演版(全5幕)アキッレ・デ・ロージェールがイタリア語に翻訳した版。フランス語版と音楽的にはほぼ同じ。67年6月4日のロンドン公演、同年10月27日のボローニャ公演(会場はテアトロ・コムナーレ)に使われたそれぞれの版があるが、この2つの版はほぼ同じ内容といわれる。ボローニャ公演に使用された楽譜がルッカ社から出版されたため、この版を“ルッカ版”ともいう。
1872年イタリア語版(全5幕)いわゆる“ナポリ版”。72年12月のサン・カルロ劇場(ナポリ)での上映に際して、以前にもヴェルディに協力したアントニオ・ギスランツォーニによって台本が改訂された。改訂されたのは第2幕のロドリーゴとフィリッポ、第5幕のエリザベッタとカルロそれぞれの二重唱などの場面。
1884年イタリア語版(全4幕)84年1月10日のミラノ・スカラ座での上演にそなえ、大幅な改訂が行なわれた。バレエ音楽やそれまでの第1幕を全面カット(カルロのアリアのみが歌詞を変え、移調したうえで新しい第1幕に残された)して全4幕とし、また多くの場面の音楽を改訂、また台本もデュ・ロクルとアンジェロ・サナルディーニによって更なる改訂が行なわれた。内容的、音楽的に凝縮され密度の濃い版となったこともあり、特に1970年代以前はよく採用されていた(カラヤンなども好んで用いていた)。ヴェルディと関係の深いヨーロッパ有数の音楽出版社・リコルディ社から楽譜が出版されたため、“リコルディ4幕版”とも呼ばれる。
1886年イタリア語版(全5幕)86年12月モデナのテアトロ・コムナーレでの上演の際に改訂されたもの。以前カットされた第1幕を復活(カルロのアリアも戻された)させ、バレエ音楽なしの5幕仕立てとされた。音楽的には84年イタリア語版をほぼそのまま用いており、第1幕が戻って物語の流れが明確になっていることなどから、1970年代以降、多くの上演で採用されるようになった。“モデナ版”、また、この版の楽譜もリコルディ社から出たため、“リコルディ5幕版”とも呼ばれる。
『ドン・カルロス』(フランス語版)の上演状況1867年パリ初演時のポスター