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Donkey Quartet
出身地 日本
ジャンルコミックソング
カントリー・ミュージック
ブルーグラス
活動期間1964年 - 1970年
メンバー小野ヤスシ
ジャイアント吉田
猪熊虎五郎
祝勝
旧メンバー飯塚文雄
ドンキーカルテットは1964年に結成され、1970年まで6年間に渡って活躍したコミックバンドの一つである。このメンバーはザ・ドリフターズから独立する形で誕生した[1]。
小野ヤスシをリーダーとしてテレビや演芸・公演などでも活躍していたが、1970年に解散する[2]。以降はそれぞれ単独でタレントや司会者・声優として活動していた。
コミックソングの代表的なヒット曲の一つとして1970年に発売され、後に約20万枚を売り上げた『宮本武蔵』というタイトルがある。
メンバー[ソースを編集]
祝以外は初期のザ・ドリフターズの元メンバーだった事もあり、演奏経験が豊富であった。祝が加入後に5人組 = クインテットとなった[3]ものの、グループ名は変更せずにそのまま「ドンキーカルテット」で解散するまで活動した。
小野ヤスシ[ソースを編集]
小野ヤスシ(1940年2月11日 - 2012年6月28日 72歳没)
鳥取県出身。メンバーのリーダーでもあり、ボーカル・ギター兼ベースを主に担当。自身のキャッチフレーズを「鳥取県が生んだ自称スーパースター」としていた[4]。他にネタに入る際や、コントが始まる時の定番台詞になっていた「一発ぶちかましてご覧に入れます」がある。なお小野がリーダーというのは名目上のことで、メンバーとは常に対等の立場で接しており、先輩風を吹かすことも無かった。ドンキーカルテット解散後は単独でマルチタレントとしてテレビ番組の司会や、バラエティー・ドラマに出演して活躍する。代表する番組として、フジテレビ系で放送していた『スターどっきり(秘)報告』があった[5]。晩年はアサヒ緑健のPR番組の司会や、旧知の仲で大親友でもある加藤茶・仲本工事とのコミックバンド「加トちゃんバンド」を組んで公演を行っていた。またミッキー安川とは付き合いが長く、ラジオ番組にゲスト出演したこともあった[6]。また年末に行っていた恒例のチャリティーショーにも参加しており、親交を深めていた。2012年6月28日、腎盂がんのため死去。72歳没。グレッチ・ギター演奏の達人でもあった[7]。詳細は「小野ヤスシ」を参照
飯塚文雄[ソースを編集]
飯塚文雄(1940年11月23日 - 2003年3月27日 62歳没)
東京都の出身で立教大学経済学部を卒業。フィドル(バイオリン)担当。元々はジミー時田らと活動し ⇒[12]、ザ・ドリフターズに参加していたが後に離脱[8]。そして小野、吉田、猪熊、飯塚の4人で新たなコミックバンド「ドンキーカルテット」を結成した[9]。ドリフに参加する以前、カジュアルス[10]というバンドでカントリー・ウェスタンミュージックの経験があったため、この分野の造詣が深いことで知られた[11]。ドンキーを退いた後は日本テレビ系番組『11PM』の水曜日[12]レギュラーとして出演し、レポーターに起用されて知名度を上げた[13]。音楽活動の方も引き続きカントリーミュージックを中心に行い、晩年は飯塚文雄&キープレンジャースを率いて活躍していた ⇒[13]。2003年3月27日に死去した。62歳没。
新宿・歌舞伎町にカントリー音楽のライブハウスである「Liberty Bell」(リバティ ベル)を1974年に開業し、自らオーナーを務めていた。その後歌舞伎町の店は閉店し、渋谷区笹塚に移転した。飯塚の死去後も営業は継続し、縁の楽器や飯塚本人を模した看板人形・帽子などが展示され、自由に鑑賞出来た。現在は閉店している。
ジャイアント吉田[ソースを編集]
ジャイアント吉田(1936年1月25日 - 2023年1月2日 86歳没)[14][15]
東京都の出身で本名、吉田一男。ボーカル・ギター兼ベースを担当。1958年に日本大学経済学部を卒業後、ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ[16]に参加して活動する。いかりや長介とはその頃から旧知の仲で親友だった。しかしザ・ドリフターズが分裂した際、いかりやのワンマン体制ぶりに吉田は以前から不満を持っており、小野と共にドリフを離脱する[17]。1970年に発売されたヒット曲『宮本武蔵』では作詞・作曲、パーカッションとリードボーカルを担当した。ギャグの受け[18]と間合い台詞は「ひどいなぁ」である。ドンキーカルテット解散後は1973年に吉田、猪熊、祝と「シンフォニックマッド」を結成。1970年代末期に西ヒトシ・ジョニー高田ら4人のジャイアント吉田と、ブラックジャック[19]を経て1980年代末期に5人組のジャイアント吉田とドンキーズ[20]を猪熊、やまだマサらと結成[21]した。メンバーは流動的で活動休止した期間もあるが、猪熊の病気療養により交代してばんきんや・ニック下平[22]らを加え、晩年まで活躍。また1973年に登場した思考系ボードゲーム『オセロ』のコマーシャルに、吉田が起用されて話題となった[23]。