ドロレス・イバルリ
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ドローレス・イバルリ
1978年
生誕1895年12月9日
スペイン王国ビスカヤ県ガラルタ
死没1989年11月12日(1989-11-12)(93歳)
スペインマドリード
職業スペイン共産党政治家
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ドローレス・イバルリ・ゴメス (Dolores Ibarruri Gomez, 1895年12月9日 - 1989年11月12日)は、スペイン政治家。ラ・パショナリア(La Pasionaria、受難者または情熱の花)の別称で知られていた。

イバルリは、スペイン第二共和政スペイン内戦における政治指導者として頭角を現したスペイン共産党の歴史的指導者である。1936年から1939年まで続いたマドリード包囲戦(en)における有名なスローガン、「奴らを通すな!」(!No pasaran!)や、「跪いて生きるくらいなら、立って死んだ方がましだ」(Mas vale morir de pie que vivir de rodillas)を語ったことで知られている。
生涯
幼年時代グラスゴーに建てられたラ・パショナリア像

ビスカヤ県のガラルタ(現在はアバント・イ・シエルバナenの地区の一つ)で、11人兄弟の8番目として生まれた。出生当時の名はイシドラ・ドロレス・イバルリ・ゴメス(Isidora Dolores Ibarruri Gomez)であった(後に正式にイシドラの名を除く手続きを行った)。当時のガラルタは大規模な菱鉄鉱鉱山の隣にあった。鉱山労働者の父親はカルリスタのイデオロギーを持つバスク人、母はカスティーリャ人だった。

敬虔なカトリック教徒である家庭の雰囲気は、イバルリ自身を修道院の門へ導くほどの、宗教的な献身を好む非常に強い特性を持っていた。

1910年、イバルリは既に教育学と教員師範学校の入学準備コースに合格していたが、家庭の経済事情のために学校を退学せざるをえなかった。彼女はお針子、のちに使用人として働き始めた。彼女は自身でこう語っている。

「誰が私に旅行費、本の購入費、食費、授業料を払うことができただろう?(中略)私の家族が辿った歴史は、女性は使用人として人に仕えるか、結婚して鉱山労働者の妻になるかだ。」

闘争へ

1916年、イバルリはフリアン・ルイスという鉱山労働者と結婚した。社会主義者でもあった夫ともに彼女はソモロストロへ転居した。そこでは鉱山労働者のリーダーであった夫の状況を生かして夜に勉強し、読書や執筆に親しんだ[1]マルクス主義の知識を得始め、保守主義やカトリック教育に疑問を持つようになった。イバルリは、『労働者階級の自由』のための闘争の手段として、理想的なイデオロギーであるマルクス主義の教義を掲げた。

イバルリは、夫とともに1917年スペイン・ゼネラルストライキ(es)に参加した。ソモロストロの社会主義グループがスペイン社会労働党に統合されると、1919年に夫とともにスペイン社会労働党の親共産主義部門に参加した。1920年のスペイン共産主義党(es)創設に参加し、ビスカヤ県委員会に入った。翌1921年、スペイン共産主義者党はスペイン共産党に再編され、イバルリも参加した。

1918年、エル・ミネーロ・ビスカイーノ紙(El Minero Vizcaino、「ビスカヤの鉱山労働者」の意)の記事を執筆するにあたり、初めてラ・パショナリアの筆名を用いた。この記事は聖週間のさなかに発表された。これはキリストの受難を公算に入れた、宗教的な偽善に通じていた[2][3]。1919年、ロシアで起きた十月革命の勝利にイバルリは感銘を受けた。

イバルリは夫との10年間の結婚生活の間に、一男五女をもうけた。娘たち4人は幼いうちに亡くなり、成人したのは1921年に生んだ長男ルベンと、1923年に生んだ三つ子の女児たちの一人、アマヤの2人であった。イバルリはかつて、夫が果物を入れるための木箱を使ってどのようにして子供の棺を作ったか、語ったことがあった[4]

当初からイバルリは共産党内で責任ある地位にあり、多くの機会に参加していた。1930年の共産党中央委員会に出席し、同じ年の国政選挙に立候補して落選した。1931年、イバルリは党機関紙ムンド・オブレーロ紙(es)の編集者として働くためマドリードへ移った。1932年3月、セビーリャで開催された第4回党中央大会において、イバルリは中央委員に選出された[5]。1933年、彼女は新たに結成された反ファシスト女性同盟(es)の委員長に就任した。同じ年の4月、ソビエト連邦の天文学者グリゴリー・ネウイミン小惑星帯の中にある小惑星に、イバルリにちなみ『ドロレス』(en)と名づけた。1932年11月、イバルリはモスクワへ向かい、共産主義インターナショナル実行委員会(en、略称ECCI)の第13回全体会議のスペイン共産党代表として出席した。12月12日まで開かれたこの会議は、戦争の脅威とファシズムの危険性とを計るものだった[6]。初めて訪れたソビエトの首都の光景は、イバルリを興奮させた。「私は、魂の目でそれらを見た。」と彼女は後年の自伝で語っている。「ここは地球上で最も素晴らしい街だった。社会主義の建設がこの街から管理されていたのだ。ここでは、奴隷、世間から見捨てられた者、農奴、プロレタリアの世代が持つこの世の夢が形作られていた。ここでは、共産主義へ向けた人類の行進を理解することができた。」[7]

イバルリは17歳年下の男性と恋愛関係にあった。この関係は私的な状況においても革命的であった。当時の、それも下層階級の女性は、それまで恋人を持とうとはしなかった。そしてイバルリの恋人が彼女よりはるかに年下であったことで、軍人男性たちにとっては彼女がさらに不可解になった。このことは社会主義と共産主義の両派から関心を持たれ、彼らはイバルリの恋人に、軍務を続ける条件として彼女と別れるよう要請した。彼がイバルリと別れると、彼女は彼を前線へ送ることさえせず、彼は任地へ送られた。

1934年の終わりまで、イバルリと他2名の3人で先頭に立ち、アストゥリアスの鉱山地帯への危険を伴う救出作戦を行っていた。1934年10月にアストゥリアスで鉱山労働者たちの労働組合がゼネラルストライキを行うと、スペイン第二共和政政府はフランシスコ・フランコ将軍に命じて軍を投入し、弾圧した。この時に両親が逮捕され飢餓状態にあった100人を超える子供たちを、マドリードの里親家庭から連れ戻していたのである。作戦は成功したが、イバルリはあっさりと逮捕された[8]。獄中のイバルリは、自らの2人の子供たちがこれ以上の苦しみを味わわないですむよう、1935年春に2人をソビエトへ送り出した。
内戦

共産主義のデモンストレーションにおいて、イバルリは強力で舌鋒鋭い演説を行う活動的な党員であったため、幾度も逮捕された。そのすぐ後成立したスペイン第二共和政においては、1936年に行われた総選挙によってアストゥリアス(当時は州ではなくオビエド県であった)のオビエド選挙区から当選し、共産党員として下院で目立っていた。スペイン内戦の勃発は、ラ・パショナリアを熱狂的な活動に駆り立てた。彼女は、共和国防衛に忠実な男女に向け、情熱的で力強い激励演説で活気付けさせた。これらの演説の一部はマドリードからのラジオ放送で流れた。この時期の彼女は共和主義者を前にした大演説で有名になり、スペイン史の伝説的存在となった。首都を守るセギスムンド・カサド大佐(es)が反乱軍(英語版)に降伏しようとするのに反対してイバルリが叫んだ『膝を屈して生きるよりは、脚で立って死のう! 奴らを通すな! 我らは通るぞ!』は、包囲戦の間のスローガンとなった。1937年には、進歩的ブルジョワのマヌエル・アサーニャ政府(首相は、共産党との連立を嫌っていた社会主義者のフランシスコ・ラルゴ・カバジェーロen)からの要請を受け、共和国議会において副大統領に選ばれた。その時の演説の締めくくりは、過激な暴力を支持する彼女の覚悟を表していた。『自由と進歩を愛する全ての国の男女よ、我々は最期の時のためにあなたたちにアピールする。もし我々のアピールが荒野で大声で叫んでいるままであれば、我々の抗議は無視されている。我々の人道的行為、もしこれら全てに弱さの兆候が現れているのならば、敵は自分自身だけを責めるだろう・・・我々は復讐心をさらけ出し、奴らのねぐらで奴らを滅ぼすつもりである』[9]

1937年2月24日、スターリンは、ソビエト義勇兵のスペイン渡航を禁止した[10]


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