ドロシー・アーズナー
Dorothy Arzner
宣材写真(1934年10月16日)
本名ドロシー・エマ・アーズナー
生年月日 (1897-01-03) 1897年1月3日
没年月日 (1979-10-01) 1979年10月1日(82歳没)
出生地 アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンフランシスコ
死没地 アメリカ合衆国・カリフォルニア州ラキンタ
ドロシー・エマ・アーズナー(Dorothy Emma Arzner、1897年1月3日 ? 1979年10月1日)とは、アメリカ合衆国の映画監督。サイレント映画時代の1920年代からトーキー時代の1940年代にかけて活躍した。当時のハリウッドでは唯一の女性監督[1]、全米監督協会唯一の女性メンバーで[2]、最初にトーキー映画を監督した女性である[3]。監督作は20本で、キャサリン・ヘプバーン、ロザリンド・ラッセル、ルシル・ボールといった名女優を世に出した[4]。 1897年、カリフォルニア州サンフランシスコの生まれ[5]。母はジェネッター・アーズナー(旧姓ヤング)、父はルイス・アーズナー。育ったのはロサンゼルスで、そこに両親の経営するレストランがあった。レストランにはメアリー・ピックフォード、マック・セネット、ダグラス・フェアバンクスといったサイレント映画のスターたちがちょくちょく訪れていた[6]。ハーバード=ウェストレイク・スクールを卒業後、南カリフォルニア大学に進学。将来医者になるつもりで2年間、医学を学ぶ[7][8] 。第一次世界大戦中は地元の救急隊に参加した[9]。しかし、研修中に医者になるという進路を変更する。「イエスのようになりたかったの。手術とか薬とかそういうのなしに、たちどころに病を癒し、死者を蘇らせる仕事がしたかった[6]」。 第一次世界大戦後、映画産業は人手を必要としていた[4]。アーズナーは狭き門が開かれたと思った。「経験者でなくても才能や知識があるとわかってもらえればチャンスがある」と1974年の『Cinema』誌のインタビューでアーズナーは語っている[6]。大学のガールフレンドがフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー
生涯
1919年のことだった。アーズナーと会ったデミルはどの部署から始めたいか尋ねた[11]。「舞台装飾ならできます」とアーズナーは答えた[6]。デミルはオフィスにある家具が何かアーズナーに質問したが、アーズナーは正解を答えられなかった。デミルは1週間の猶予を与えるからどの部署にするか決めて秘書に伝えるよう言った[6]。アーズナーはスタジオの、セシル・B・デミルなどのセットを1週間見学した。「もし映画ビジネスを続けていくなら監督しかないわ。なぜなら監督は他人に何をすべきか言えるから」[6]
しかし、アーズナーはデミルの秘書が推薦した脚本部に入った。脚本をタイプライターで打ちながら「映画のすべて」を学んだ[6]。半年後にはアーズナーはパラマウントの子会社の編集者になっていた。そこで52本の映画を編集した。1922年、子会社から本社に呼び戻され、ルドルフ・ヴァレンティノの『血と砂』を編集した[6]。