ドルフ・ルケ
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はデ・グスマン、第二姓(母方の)はルケです。

ドルフ・ルケ
Dolf Luqueシンシナティ・レッズ時代
基本情報
国籍 キューバ
出身地ハバナ州ハバナ
生年月日1890年8月4日
没年月日 (1957-07-03) 1957年7月3日(66歳没)
身長
体重5' 7" =約170.2 cm
160 lb =約72.6 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1911年
初出場MLB / 1914年5月20日
最終出場MLB / 1935年4月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


キューバン・スターズ (ウェスト)(1912)

ボストン・ブレーブス(1914 - 1915)

シンシナティ・レッズ(1918 - 1929)

ブルックリン・ロビンズ(1930 - 1931)

ニューヨーク・ジャイアンツ(1932 - 1935)

プエブラ・エンゼルス(1946)

監督・コーチ歴


ニューヨーク・ジャイアンツ(1936 - 1937, 1941 - 1945)

ヌエボラレド・オウルズ(1955)

ユカタン・ライオンズ(1956)

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

アドルフ・ドミンゴ・デ・グスマン・ルケ(Adolfo Domingo "Dolf" De Guzman Luque, 1890年8月4日 - 1957年7月3日)は、キューバのハバナ州ハバナ出身のプロ野球選手投手)。右投げ右打ち。愛称は"The Pride Of Havana"(ザ・プライド・オブ・ハバナ)。
経歴
アメリカ合衆国でのプレー

キューバハバナに生まれた。アメリカ合衆国では当初、ニグロリーグのキューバ人選抜チームであるキューバン・スターズ (ウェスト)で投手としてプレーをしていたが、青い眼をしていて肌の色が白かったことで、有色人種の出場が許されていなかった当時のMLBに出場することが出来た。

1914年に23歳でMLBのボストン・ブレーブスに入団したが、ブレーブスでは出場機会に恵まれなかった。

1918年にはシンシナティ・レッズトレードされる。主にカーブを主体とした頭脳的なピッチングスタイルで、この年に83.0を投げて頭角を現し、その後12年にわたってレッズの先発投手を務めた。

1919年には、ブラックソックス事件の舞台となったシカゴ・ホワイトソックスとのワールドシリーズに出場。リリーフとして2試合に登板し、レッズのワールドシリーズ制覇に貢献している。

その後1923年に27勝8敗・防御率1.93の成績で最優秀防御率最多勝の二冠を獲得し、キューバ出身者として初めてMLBの投手部門のタイトルを獲得した人物となった。

1925年にも16勝・防御率2.63の成績で2度目の最優秀防御率のタイトルを獲得し、この時はシーズンのMVP候補にも挙げられている。

レッズに12年在籍した後、40歳に近くなった1930年ブルックリン・ロビンズへ移籍。

1932年には41歳でニューヨーク・ジャイアンツのリリーフを務めた。

1935年に44歳で現役を引退した。1933年の野球カード
キューバでのプレー

1911-1912シーズンにキューバ国内リーグ"リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル"デビュー。1911年秋のフィラデルフィア・フィリーズとの親善試合にも登板した。

1919-1920シーズンはアラクラネス・デル・アルメンダレスの選手兼任監督として、チームを優勝に導いた。

1934-1935シーズンにリーグ1位の防御率1.27を記録し、再びアルメンダレスを優勝に導いた。

1944-1945シーズンに54歳で「現役復帰」して1試合だけ登板した。

キューバリーグを代表する投手として長期間活躍し、通算106勝71敗は革命前のキューバリーグではマーティン・ディーゴに次いで2番目に多い勝利数である。
現役引退後

ジャイアンツのコーチを1936年1937年1941年から1945年までの計7シーズン務めた。

その後も1956年までキューバリーグ、マイナーリーグメキシカンリーグのいくつかのチームの監督を務めた。

1957年7月3日心臓発作のため、生まれ故郷のハバナで死去。66歳没。遺体はコロン墓地に埋葬された。同年にキューバ野球殿堂入りを果たした[1]

1967年にレッズ野球殿堂入りを果たした[2]
詳細情報
年度別投手成績




















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