ドルニエ社(ドルニエ航空機製造;Dornier Flugzeugwerke)は、ドイツの航空機製作会社。クラウディウス・ドルニエによって、1914年にフリードリヒスハーフェンにおいて設立された。その歴史を通じて民間・軍用双方の分野において記録に残る各種の航空機を製作してきている。 ドルニエは、1920年代から1930年代にかけて、特に全金属製の巨大飛行艇(Do J ワール(1924年)や、Do X(1929年)など)の製作によって高名であったが、1930年代にはドルニエ コメットやドルニエ メルクール
沿革
第二次世界大戦前
この時期、ドイツの航空界はヴェルサイユ条約によって国内での生産を規制されており、航空機は外国のライセンス生産で作られるものがほとんどであった。ライセンスしたメーカーはイタリアのピアッジョ、CMASA
、スペインのCASA、日本の川崎重工業、オランダのアヴィオランダなどである。また、この時期ドルニエは、フリードリヒスハーフェンからボーデン湖を挟んだ対岸にあたるスイスのアルテンライン(ザンクト・ガレン州)にスイス・ドルニエ社を設立し、Do XやDo Y爆撃機などの製作はスイス・ドルニエ社で行っていた[1]。ナチスが政権を握ってヴェルサイユ条約を破棄するにいたり、ようやくドルニエは国内生産を再開することができた。スイス・ドルニエ社はその後ドフルク社となり、スイス空軍向けにモラーヌ・ソルニエMS412のライセンス生産(スイスでの名称はD3801)などを手がけることとなる[2]。第二次世界大戦の戦前・戦中を通じて最も著名なドルニエの軍用機は「空飛ぶ鉛筆」と渾名(あだな)されたDo 17(およびその発達型であるDo 217、Do 317)である。1934年に初飛行したDo 17は当初はルフトハンザ用の民間機として開発されたが、胴体が細すぎたため(これが渾名の由来)商用としての魅力に乏しく、ルフトハンザから契約を見送られてしまった。そのためドルニエは本機を爆撃機として開発を続行し、1935年に爆撃機型の初飛行を行った。
Do 17はスペイン内戦にフランコ側として参戦したほか、空軍の各種の中型爆撃機のひとつとしてバトル・オブ・ブリテンを含む大戦前期の戦闘に参加した。同機は大戦後期には、イギリス空軍の夜間爆撃に対抗する夜間戦闘機として活躍した。このほか、ドルニエは第二次大戦における最速のレシプロ戦闘機として双発のDo 335を開発したが、実戦配備は間に合わなかった。 第二次世界大戦後、ドイツの航空機生産は再び禁じられてしまったため、ドルニエは1954年に禁が解かれるまでスペインやスイスに拠点を移し、航空コンサルティングサービスなどを提供することで糊口をしのいだ。戦後、ドルニエはDo 27やDo 28という小型のSTOL輸送機の成功で急速に立ち直り、さらに1974年にはフランスのダッソー・ブレゲー社との合弁で練習・攻撃機アルファジェットの開発も行った。 1985年、ドルニエはダイムラー・ベンツグループに統合され、その航空機部門となった。 1996年にはドルニエの大部分はフェアチャイルド社に取得され、フェアチャイルド・ドルニエ社となったが、2002年には経営が破綻してしまった。(フェアチャイルド・ドルニエ社の項を参照) 医療機器部門が独立したドルニエ メドテック
第二次世界大戦後
ドルニエ製の航空機
ドルニエ Do R
ドルニエ Do Y
ドルニエ Y
1930年-1945年
Do 10
Do 11
Do 12
Do 13
Do 14
Do 15
Do 16
Do 17
Do 18
Do 19
Do 22
Do 23
Do 24
Do 26
Do 29
Do 212
Do 214
Do 215
Do 216
Do 217
Do 247
Do 317
Do 335
1945年以降
Do 27
Do 28
Do 31
Do 128
Do 132
Do 212
ドルニエ 228
ドルニエ 328/Do 328Jet
フェアチャイルド・ドルニエ 528
フェアチャイルド・ドルニエ 728
フェアチャイルド・ドルニエ 928
ダッソー/ドルニエ アルファジェット
脚注^ 飯山幸伸 『中立国の戦い』 光人社、2005年、ISBN 4-7698-2463-7、pp.107-108
^ 飯山幸伸 『中立国の戦い』 光人社、2005年、ISBN 4-7698-2463-7、pp.107-108・p129・p144