ドルツク公国(ドルツクこうこく、ベラルーシ語: Друцкае княства)はルーシの分領公国の1つである。ドルツクを首都とし、ドニエプル川の支流のドルツィ川上流域を領土とした[1]。12世紀から14世紀にはポロツク公国の、14世紀から16世紀にはリトアニア大公国の分領公国となっていた[注 1]。
リトアニア大公国編入以降の地名・人名などに関しても、便宜上、ロシア語からの転写表記に統一した。ベラルーシ語、リトアニア語、ポーランド語に準じた表記についてはリンク先等を参照。
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1101年、ポロツク公フセスラフが死亡した後、ポロツク公国はその息子たちに分割相続された。ドルツク公国はそのうちの一つである。それ以来、ドルツク公国はログヴォロド(あるいはボリス)の子孫[注 2]によって統治された。1127年、初代ドルツク公ログヴォロド(ボリス)はポロツク公となり、次のドルツク公には、おそらくこの人物の子のログヴォロドが就いたと考えられる。
しかし1129年に、キエフ大公ムスチスラフ1世の遠征軍によって、ポロツクの地の諸公は捕らえられ、ビザンツ帝国に送られた。2代目ドルツク公のログヴォロドもその中に含まれていたが、1140年に帰還し、再びドルツクを統治した。彼は1144年にポロツク公となり、ドルツク公位にはその子のグレプが就いたと考えられている。なお、ポロツク公となった後、ログヴォロドは1151年にポロツクの人々の反乱の結果、ミンスク公ロスチスラフに捕らえられた。ロスチスラフはドルツク公位に自身の子のグレプを据えた。しかし1151年にはドルツクのヴェーチェ(民会)はロスチスラフの子のグレプを追放し、再びログヴォロドを公に迎えた。この報復としてドルツクはミンスク公・ポロツク公の攻撃を受けたが、1159年にはログヴォロドが再びポロツク公位を獲得した。その後、ログヴォロドは1162年より、自身4期目のドルツク公となり、1171年に死亡した。
上記のログヴォロド以降の、ドルツクの統治者に関する情報量は非常に乏しい。しかし近隣の諸公国に比べ、ドルツク公国は長期にわたって存続した。史料の1180年の記述では、ドルツク公にはログヴォロドの子のグレプが再度就いている。1196年にはボリス・フセスラヴィチという人物(おそらくログヴォロドの孫、グレプの甥)の名が見られる。このボリス・フセスラヴィチは、1215年から1222年にかけてポロツク公となったボリス・ダヴィドヴィチと同一人物とみなす説[注 3]や、1217年の聖人に関する目録の中に言及があるという指摘[注 4]がある。ただし、キエフ大公国存続期のドルツク公についての記録を、1196年以降の史料上に見つけることはできない。ドルツク公国は13世紀末からはミンスク公国、14世紀初めからはヴィテプスク公国の影響下にあった。
なお、何人かの研究者は、16世紀以降に登場する貴族の家門であるドルツキー家(ロシア語版)を、初代ドルツク公ログヴォロドの子孫とみなしている[3]が、権威ある説としては、ドルツキー家はノヴォグルドク公ロマン(ダニール・ロマノヴィチの子)を起源とする家門であるとみなされている[4][5]。