ドルジーナ
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ドルジーナ(ウクライナ語/ロシア語: дружина、ベラルーシ語: дружына、ポーランド語: dru?yna ksi???ca)は中世のスラヴ社会(en)の公(クニャージ)に属する軍隊である。スラヴ諸語の「друг」(仲間・友人の意)に由来し[1][2]、日本語文献では従士団[3]、親衛隊[4]などと訳される。公と同様に、キエフ・ルーシ時代の重要な要素である。

(留意事項):本頁の歴史的用語の日本語訳は文献によって異なるものがある。出典は脚注を参照。
キエフ・ルーシのドルジーナ
価値

キエフ・ルーシの軍隊には3種類あり、本頁のドルジーナの他に、戦争時に都市や農村から動員された部隊と、遊牧民を雇った傭兵部隊があった[4]。ドルジーナは他の部隊とは異なり、常に戦闘準備のできていた軍隊だった。公にとっては、公位を獲得するのを助ける存在であり、助言者の役割も果たした。また他種族との絶え間ない戦争のあったキエフ・ルーシ期の公国・国民にとっては、信頼度の高い守護者となる軍隊をまとめ上げる力のある公は、評価に値する人物であった。このように、キエフルーシ期の統治者である公は、外部の敵に対する防衛力と同様、内部の秩序を維持するための軍事力を必要としていた。従って公はドルジーナを尊重し、また充分な贈与を与えていた。また、キエフ・ルーシ期は公・次いで貴族層を頂点とする身分制の敷かれた社会であったが、ドルジーナに加入することは、身分間の移動を可能にする手段の一つであった[5]
構成員と人数

民族構成は一様ではなく、9世紀から12世紀のルーシのドルジーナには、ヴァリャーグルーシ族フィン人テュルク系民族ポーランド人マジャル人が見いだされる。構成人数は明確ではないが、おそらく数百人を超えてはいないと考えられている。922年アフマド・イブン・ファドラーンの記述によれば、キエフの公と共に「公の館には、公の戦友である勇者が400人いた」という。ボリス・ルィバコフ(ru)は11世紀から12世紀の公の館について、概算で250から300人が居住できたとみなしている。ドルジーナは軍の核であり、おそらく、騎兵隊の主要な構成員だった。史上の主要な軍事行為において、中心的軍事力として参加したことが知られている。
職務ウラジーミル・モノマフと、狩猟に同行するドルジーナ。
ヴィクトル・ヴァスネツォフ1848年

ドルジーナの主たる役割は軍事行為への従事である。しかし軍事以外にも、下位の層のドルジーナは様々な公の依頼を実行し、また従者や護衛として公に同行した。これらのドルジーナは公の種々の評議会には参与できなかったが、例外として軍事評議会には参加した。なお軍事評議会には、軍事遠征に参加する同盟国民としての資格で、異民族出身のドルジーナも参加を許可されていた。

また、その性格は時代と共に変化した。すなわち、(1)9世紀末期 - 10世紀中葉:公の一門に従属する軍。(2)10世紀後半 - 11世紀前半:臨時募集によって集められた、長期間従事する連隊。(3)11世紀末期?:公から武器と馬を支給され、ヴェーチェ(民会[6]・市会[7])の決定により進撃する都市所属の連隊。というものであった。さらに、11世紀 - 12世紀のドルジーナは、明確に2つの層に分かれた。ロシア語では上位の層は「ドルジーナ・スタレーシャヤ」等と呼ばれ、下位の層は「ドルジーナ・モロドシャヤ」と呼ばれる[注 1]

この上位の層はボヤーレ(貴族[5][8][9])階級を構成した。ボヤーレは軍事・民事の高位の役職であるトィシャツキー(千人長[10]・千戸官[7])、ヴォエヴォダ(軍事司令官[11])、ポサードニク(代官[12]・公代理[7])などの役職を占めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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