ドルゴン
.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}??????
愛新覚羅氏
摂政睿親王ドルゴン
全名????? ????? ??????
(aisin-gioro dorgon)
称号和碩睿親王
敬称成宗(順治帝による廟号、のちに剥奪された)
懋徳修道広業定功安民立政誠敬義皇帝(erdemu be mutebufi,doro be dasaha, gurun be badarambufi, gung be mutebuhe, irgen be elhe obuha, dasan be ilibuha, akdun ginggun, jurgangga h?wangdi, 順治帝による諡号、のちに剥奪された)
睿忠親王(乾隆帝による諡号)
出生 (1612-11-17) 1612年11月17日
ヘトゥアラ
死去 (1650-12-31) 1650年12月31日(38歳没)
喀喇城
配偶者敬孝忠恭元妃
子女東莪(娘)
父親ヌルハチ
母親アバハイ
役職摂政
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。清史稿/巻218 列伝五 諸王四 太祖諸子三
ドルゴン(満洲語:??????, ラテン文字転写: dorgon[1]、多爾袞、万暦40年10月25日(1612年11月17日) - 順治7年12月9日(1650年12月31日))は、後金から清初の皇族。清初の皇父摂政王、睿親王(中国語版)。甥にあたる順治帝の摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮し、大きな役割を果たした。養子にドルボ(中国語版)(同母弟のドド(中国語版)の五男)がいる。 太祖ヌルハチの第14子として生まれる。母は太祖の4番目の正妃であるウラナラ氏出身のアバハイで、太祖が崩御した際には殉死を命じられるも、ハーン位を継いだ異母兄の太宗ホンタイジの下でモンゴルのチャハル部を討つことに功績を挙げ、族内の実力者となった。
生涯
皇父摂政王(中国語版
順治帝の即位後もドルゴンとホーゲの対立は収まらず、順治元年(1644年)4月1日には、ホーゲが自分を誹謗しているのを耳にしたドルゴンが、「ホーゲが謀反を企んでいる」と上奏した。幼い順治帝は兄を助けようと泣いて命乞いし、罰金刑だけですんだ[2]。その後、権力を拡大したドルゴンは順治4年(1647年)、ジルガランから摂政王の位を剥奪し、代わりに自分の同母兄弟のドドやアジゲなどの近親者を要職につけて固めた[3]。翌順治5年(1648年)にはジルガランを郡王に格下げにしている。
ホーゲはドルゴンから冷遇されるも戦場で功績を重ね、張献忠を倒すなど抜群の戦績を挙げた。これを不愉快に思ったドルゴンは再び謀反の罪で殺そうとした。順治帝は一歩も譲らず「処刑は認めない」と毅然たる態度を示したものの、ホーゲは冤罪で捕らえられ、順治5年(1648年)に獄死した[4]。ホーゲとジルガランを排したドルゴンは権力をさらに増し、横暴が目立つようになった。自身の称号は「摂政王」から「叔父摂政王」、順治2年(1645年)に「皇叔父摂政王」、順治5年(1648年)からは「皇父摂政王」を称している。また、ホーゲ死後にその側室の1人(ボルジギト氏)を自分の側妃とした。 順治元年(1644年)に明が順の李自成によって滅ぼされると、対清の最前線である山海関の守将であった呉三桂は清に対して、李自成を討つための援軍を求めた。これに応えたドルゴンは、自分と兄弟たちの支配下にある軍と皇帝直属軍を率いて南下し、順軍を破った。順軍が敗走した後に北京に入城した清軍は、自殺した明の崇禎帝を厚く弔い、減税・特赦を行うなど明の遺民の心情を慰める一方で、満洲族の風習である辮髪を漢民族に強制し、「髪を留める者(頭を剃らない)は首を留めず」と言われるような苛烈な政策で支配を固めた。 順治7年(1650年)、ドルゴンは狩猟中に薨去した。順治帝及び臣下は東直門の外まで喪服を着て棺を出迎え、懋徳修道広業定功安民立政誠敬義皇帝と諡され、成宗の廟号を与えられた。皇帝でもないのに「宗」のつく号を送られるのは異例であった[5]。 ドルゴンが薨去すると、それまで押さえつけられていた反ドルゴン勢力の不満が一気に噴出した。順治帝はほどなく、ドルゴンに大逆などの罪があったとして、順治8年(1651年)2月22日、ドルゴンの罪を暴く書状の全国に公布した。罪状として以下の数々が挙げられた。
清の入関
最期
共同の摂政としてジルガランがいたのにもかかわらず、ドルゴンは権力を独占してジルガランを政治に参加させず、自分に近しいドドを輔政叔王[6]にした。