ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ
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朝青龍 明徳


基礎情報
四股名朝青龍 明徳
本名Долгорс?рэнгийн Дагвадорж
ドルゴルスレン・ダグワドルジ
愛称ドルジ、平成の大横綱、朝様、リアル播磨灘
生年月日 (1980-09-27) 1980年9月27日(43歳)
出身 モンゴルウランバートル市
身長184cm
体重155kg
BMI47.84
所属部屋若松部屋→高砂部屋
得意技右四つ、寄り、突っ張り
成績
現在の番付引退
最高位第68代横綱
生涯戦歴669勝173敗76休(67場所)
幕内戦歴596勝153敗76休(55場所)
優勝幕内最高優勝25回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
序二段優勝1回
殊勲賞3回
敢闘賞3回
データ
初土俵1999年1月場所
入幕2001年1月場所
引退2010年1月場所
趣味音楽鑑賞、ラジコン、草サッカー
備考
金星1個(武蔵丸1個)
2017年2月20日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲
朝青龍を応援する幟土俵入りを行う朝青龍土俵入りを行う朝青龍(2009年5月場所)

朝青龍 明徳(あさしょうりゅう あきのり、1980年9月27日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で高砂部屋所属の元大相撲力士、第68代横綱、モンゴル国レスリング協会会長。世界経済フォーラム2007年度ヤング・グローバル・リーダーの一人[1]。現在は実業家、モンゴル国民投資銀行(NIBank)の経営者、評論家映画俳優慈善家として多方面で活躍している。本名はドルゴルスレン・ダグワドルジ[注釈 1]モンゴル語キリル文字表記:Долгорс?рэнгийн Дагвадорж、ラテン文字転写:Dolgorsurengiin Dagvadorj )。引退後は、「(元・横綱朝青龍の)ドルゴルスレン・ダグワドルジ氏」と報道などで紹介されることも多い[注釈 2][2]。左利き。血液型はO型。甥は立浪部屋豊昇龍智勝(ほうしょうりゅう ともかつ、長兄スガラクチャーの次男)。
来歴
生い立ち

15歳でモンゴル相撲を始め、ナーダムの相撲少年の部で優勝した。

1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学し、翌年には同い年で文徳高校のエース内田水と対戦も惨敗喫し翌々年11代若松(元大関・4代朝潮、2002年2月に7代高砂に名跡変更)によるスカウトにより、高校を中途退学(のち卒業認定)して角界に入門[注釈 3]
入門

入門した際には「目標は旭鷲山関と千代大海関です。一生懸命頑張って、お父さんとお母さんを喜ばせたい。」と抱負を語っていた。高砂は勧誘した動機などについて「当時の俺は、部屋を引っ張っていってくれるような元気な子が欲しかったんだ。朝青龍は、体は大きくなかったけど、負けん気むき出しで、まさにピッタリだった」と後年振り返った[3]

初めて番付四股名が載った1999年3月場所では二番相撲で田代に敗れるが6勝を挙げ、5月場所、7月場所は全勝優勝。三段目までの各段をそれぞれ1場所で通過して一気に番付を上げた。本人はこの頃について横綱になってから「あの頃はただ、ただ必死だった。稽古量も半端ではなかった。相撲を取って楽しかった」と振り返った[4][5]幕下昇進後も二場所連続で6勝1敗として番付を大きく伸ばした。

初めて十両昇進内規の対象となる地位に昇進した2000年1月場所(西幕下12枚目)は、終盤の3連敗もあって3勝4敗で自身初めての負け越しを経験した。その後は再び勝ち越しを続け、同年7月場所では西幕下2枚目の地位で全勝優勝を果たして、翌9月場所での十両昇進を確定させた。新十両となる東十両7枚目で迎えた9月場所は9勝。翌11月場所は西十両3枚目の地位で好調を維持し、14日目終了時点で金開山と同率で優勝争いをしていたが、千秋楽で自身初めてとなる幕内の土俵で平幕の若光翔に敗れ、金開山は勝利したことで優勝を逃した。それでも11勝4敗の好成績で翌初場所での新入幕を確定させた。
幕内昇進以後
2001年?2003年

2001年1月場所に新入幕。千秋楽の和歌乃山戦に勝つという条件付きで敢闘賞候補に挙がったものの、これに敗れて9勝6敗となって受賞を逃した。番付運に恵まれて一気に6枚半上昇した翌3月場所も同様に千秋楽に勝利を挙げるという条件付きで敢闘賞候補に入ったものの出島に押し出されてまたしても9勝6敗に終わり、又しても受賞を逃した。しかしながら、番付運にもまた恵まれ、東の6枚目で9勝という成績ながら、入幕3場所目の5月場所は新小結に昇進。初日に初めて招待した両親が見守る中で、横綱武蔵丸を下手投げで降して白星を挙げた。のち現役引退時の会見では一番嬉しかったこととして、この一番をあげていた[6]。3日目には貴乃花と初対戦したが、立合いの圧力で負けて大きく押し込まれ、突っ張りで反撃するも全く通じず一方的に押し出された。この場所は結局8勝7敗で場所を終えたものの武蔵丸の他に4大関武双山魁皇・千代大海・出島)から初勝利をあげ(出島以外の3人は初顔)、新入幕以来3場所連続で三賞候補に入ったその期待に応える形で初三賞(殊勲賞)を獲得(この場所に朝青龍戦で勝った大関以上の力士は、貴乃花と雅山のみ)。なお千秋楽白星は十両昇進以降この場所が初めてであり、千秋楽にまた負けるかもしれないというプレッシャーやそれを乗り越えた喜びなどをインタビュールームで明かしていた[7]。東小結に昇格した翌7月場所は稽古中に首を痛めるアクシデントがあったため初日から3連敗したが、自身と同じ若手のライバル達(琴光喜・若の里・栃東)三役には全勝しある程度巻き返したが大関以上の相手に全敗し、再び7勝7敗で迎えた千秋楽でも負けて関取昇進後初の負け越しを経験。しかし翌場所から横綱昇進まで一度も負け越すことなく番付を上げ続けた。4日目の栃東戦では、張り手で相手の歯を2本吹っ飛ばす程の気迫の込った取り組みだった。

9月場所も1横綱3大関に勝ち10勝し敢闘賞、11月場所も10勝し2場所連続敢闘賞。

このように確実に上位の力は身につけており幕内昇進後引退するまで取組での通算の決まり手数は41種を数えた多彩な技と[8]5月場所の安芸乃島戦から、2009年9月場所まで初顔合わせの相手に34連勝した初顔の相手への強さ[注釈 4]などもあり取りこぼす要素が少なく、ジムでの筋力トレーニングを積極的に取り入れる[注釈 5]など独自の調整も功を奏した。豊ノ島はそのパワーについて「力×テクニックで『力』が発揮」と日本相撲協会退職後に臥牙丸との対談で表現している[9]2002年1月場所にてモンゴル出身の力士で初の関脇昇進を果たし、その場所で8勝7敗と勝ち越す。2002年1月場所の栃東戦も前年の7月場所を上回るほど張り手で突きまくり、前代未聞の流血戦になり水入りでもないのに中断した取り組みになった。


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