ドリー・マディソン
Dolley Madison
ドリー・マディソン(1817年頃。レンブラント・ピール
ドリー・ペイン・トッド・マディソン(Dolley Payne Todd Madison , 1768年5月20日 - 1849年7月12日)は、第4代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディソンの夫人(アメリカ合衆国のファーストレディ)である。身長5フィート7インチ(約170cm)[1]。目次 1768年5月20日にイギリス領北米植民地のノースカロライナ植民地ギルフォード郡にてクエーカー教徒のジョン・ペイン(1736-1792)とメアリー・コールズ・ペイン(1745-1807)の長女(3人の兄・1人の弟・3人の妹)として生まれた[2]。父のジョンは元来はクエーカー教徒では無かったが、クエーカー教徒のメアリーと結婚して改宗した。奴隷制を否定するその教えにもとづき、所有していた奴隷を全員解放した[2]。 1769年に両親が以前に住んでいたバージニア王室領植民地に戻り[2][3]、少女時代の多くをこの地で過ごした。 1783年にクエーカー教徒の町であるフィラデルフィアに移った[3]。ジョンはこの地で始めた洗濯仕上げ用の糊を製造する事業に失敗してクエーカーから追放されてしまった[4]。 ドリーは1790年1月7日、21歳の時にジョン・トッド(1763-1793)と最初の結婚をした[2]。トッドはクエーカー教徒の弁護士だった[4]。二人の間には2人の子供、ジョン・ペイン・トッド
1 生い立ち
2 二度の結婚
3 ファーストレディとして
4 1814年のホワイトハウス焼き討ち
5 マディソン大統領退任後
6 記念硬貨
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
生い立ち
二度の結婚 1794年にジェームズ・ピールによって描かれた肖像画
黄熱病の流行が原因で、夫と下の息子は同じ1793年10月14日に亡くなってしまった[2]。笑みを浮かべた蒼い瞳、美しい肌、黒い巻き毛、人を惹きつける魅力を持つと言われた25歳の子連れの未亡人に多くの男性が言い寄った[3]。トマス・ジェファーソン政権下で副大統領を務めたアーロン・バー合衆国上院議員もその一人だった[4]。
ドリーは結局、当時すでに42歳で「リトル・ジェミー」と呼ばれた小男、ジェームズ・マディソン下院議員からの求婚を受け入れ、1794年9月15日に二度目の結婚をした[2][4]。マディソンは初婚で、未亡人と結婚した3人目(前の2人はジョージ・ワシントンとトマス・ジェファーソン)のアメリカ合衆国大統領経験者であるが、ドリーはマーサ・ワシントンとマーサ・ジェファーソンとは違い、財産らしきものはほとんど無かった[4]。二人の結婚を盛んに勧めたのは遠縁の従姉にあたるマーサ・ワシントンだった。彼女の夫のワシントン大統領も女同士が話し込んでいるところに顔を出して「彼は将来、おそらく大統領になるとても有望な男だ」と言い切った。迷うドリーにマーサ夫人も「彼はきっと良い夫になりますよ。歳がうんと離れてるからかえって良いのです」と言い、この大統領夫妻のアドバイスがドリーを結婚に踏み切らせたのだった[5]。
クエーカーの教会から教徒以外の男と再婚したという理由で破門されてしまい、これを機にドリーは変わった。それまではつましい生活をしていたのに、華やかな衣装を着て、豪華なパーティーを開くようになった。これが歴代大統領の中で最も小柄(身長162.5cm、体重45.36kg)でドリーよりも背が低く、地味でまるで葬式に出かけるようだと悪口を言われた夫のマディソンにも好影響を与えた。彼もダンスをするようになり、座談上手にもなった[6]。ドリーは夫を「偉大な小マディソン」と呼んだ[3]。 1815年頃に描かれた肖像画 1801年にマディソンがジェファーソン新大統領から国務長官に任命されると、夫妻はワシントンD.C.に移り住んだ[2][3]。ジェファーソンが男やもめだったため、ドリーがファーストレディの代役を務めることが多かった[2]。
ファーストレディとして