ドリームキャスト
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「Dreamcast」はこの項目へ転送されています。湯川専務の曲については「Dreamcast (湯川専務の曲)」をご覧ください。

ドリームキャスト

メーカー(セガ・エンタープライゼス→)
セガ
種別据置型ゲーム機
世代第6世代
発売日 1998年11月27日
1999年9月9日
1999年10月14日
CPU200MHz Hitachi SH-4 RISC
GPUVideoLogic PowerVR2 CLX2
対応メディアGD-ROM
CD
対応ストレージビジュアルメモリ
メモリーカード4X
コントローラ入力ケーブル
外部接続コンポジット
S端子
VGA
オンラインサービス本体付属のモデム
ブロードバンドアダプタ
売上台数 280万台[1]
406万台
1,060万台[2]
最高売上ソフト シーマン /52万4,731本[3]
ソニックアドベンチャー /126万本
ソニックアドベンチャー /242万本[4]
互換ハードウェアCX-1
NAOMI
前世代ハードウェアセガサターン
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ドリームキャスト(Dreamcast)は、セガ・エンタープライゼス(現: セガ)が発売した家庭用ゲーム機である。一般にはDCやドリキャスの略称で呼ばれる。

ソニー・コンピュータエンタテインメントPlayStation (PS) に劣勢を強いられていたセガサターンの次世代機として社運を賭けて開発され、1998年(平成10年)11月27日に日本国内で第6世代ゲーム機の先陣として発売された。

さまざまな要因から、PSおよび途中で投入されたPS2とのシェア争いに再び惨敗し、2001年(平成13年)1月にセガはドリームキャストを含む家庭用ゲーム機ハードウェアの製造とプラットフォームビジネスからの撤退を表明。ドリームキャストは事実上セガ最後のゲームプラットフォームとなった[注 1]

2018年(平成30年)6月5日には20周年記念ポータルサイトが開設された。
歴史

1996年頃から開発が行われ、1997年に日本経済新聞が次世代機を開発している旨をスクープし、日立製作所のSH-4がセガの次世代ゲーム機に搭載される旨も報じられ、セガサターン後継機の存在が明らかとなった。11月には会長の大川功がマイクロソフトと開発中である旨のコメントを出した。

1998年5月21日の朝刊でティーザー広告が掲載された当日午後に「ドリームキャスト」の正式発表が行われた[6]。広告戦略においてハードとメーカーの知名度が共に急上昇し、「売りに出せば売れる」という人気を博したかに見えた。しかし、本体発売前から肝心の供給体制が整わないという懸案事項が生じていた。英・VideoLogic(後のen:Imagination Technologies)社と日本電気半導体部門(後のルネサスエレクトロニクス)が共同開発したグラフィックスチップPowerVR2の開発が予定よりも遅れたことが発端となり、ソフトウェアの開発に遅れが生じ始めた。さらにチップの歩留まりが向上せず、十分な量を確保できなかったことが致命的だった[7]

この事から出荷台数が予定数を大きく下回り、発売日を当初予定の11月20日から27日に一週間延期し[6]、初回出荷量の大幅減、予約キャンペーンも急遽取りやめといった「売りたくても売りに出せない」事態となった。湯川専務の宣伝効果もあってか初回出荷分は即日完売となったものの、PowerVR2の開発の遅れがもたらしたソフト不足が最後まで足を引っ張り、さらにPowerVR2の歩留まりが向上しない事には、増産によるシェア拡大も望めない状況にあった[7]

この影響を理由として、発売からわずか15日後の1998年12月10日付けで湯川英一(専務執行役員)を常務執行役員へ降格させる人事を発表し、以後、「湯川元専務」の名でCMやマスコミに出ることになる(翌年、卸子会社セガ・ミューズ会長に就任)。

販売台数のテコ入れ策として、1999年3月20日から4月11日にかけてインターネット通信機能での応募者から抽選1万名に現金1万円(総額1億円)をプレゼントする『湯川元専務のお宝さがし』キャンペーンを実施した。

大川功は1999年頃にXbox開発の話を聞きつけ、ドリームキャストのソフトウェア開発に携わったマイクロソフト本社のビル・ゲイツ社長(当時)相手に、中裕司鈴木裕といったセガのスタークリエイターや西和彦を引き連れて[8]に何度も直談判し、「セガのタイトル資産を提供するからドリームキャストの互換性をXboxで実現させてくれ」とドリームキャストの道筋を作ろうとした。だが、ドリームキャストはインターネット環境を有するのに対し、Xboxはインターネット環境を考えておらず結局破談となった[注 2]。ただし、Xboxはwebブラウジングには対応しないものの、Xbox Liveにてインターネットを利用したオンラインサービスは実施している。

1999年6月1日に開催した事業発表会「SEGA New Challenge Conference '99」席上で、6月24日から定価を2万9800円から1万9900円へ値下げすることを発表したが、値下げ相応の機械部品のコストダウンは図られていないため、1台売るごとに1万円の赤字となった[7]

2000年3月にアメリカの半導体メーカーラムバス社が、日立(後のルネサスエレクトロニクス)製のSDRAMSuperHなどが特許を侵害している[注 3]として、それを搭載した本機の米国輸入差し止めの仮処分をアメリカ国際貿易委員会へ申請する騒動が発生し、海外販売が危ぶまれたが、日立がラムバス社と和解したことでセガには影響が及ばなかった。6月には入交昭一郎代表取締役社長が同副社長に降格、秋元康が社外取締役を退任、大川功会長が代表取締役社長を兼務した。

撤退への最終的な決断がされたのは2000年の年末商戦の結果を踏まえた上であり、北米では『NBA2K1』『NFL2K1』というミリオンセラーが期待出来るタイトルとの本体同梱版がリリースされたが、勢いを取り戻す事は出来なかった[6][7]

2001年1月23日午前に時事通信社などの報道でセガがPlayStation 2へのゲームソフト供給とドリームキャストの生産中止がリークされ、同日のセガ株価は一時ストップ高となる。翌24日には日本経済新聞朝刊でも一面記事で後追いされ、セガは同月25日に報道の内容を一部認めるコメントを出したことで、セガおよびCSKの株価は乱高下した。

そして1月31日の15時過ぎ(株式市場終了後)にパレスホテルで「構造改革プラン説明会」と題した記者会見を開き、役員同席(大川会長兼社長は欠席[13])のうえで香山哲特別顧問兼最高執行責任者が家庭用ゲーム機事業から撤退を正式発表する。コンシューマ向けゲーム事業についてはPlayStation 2ニンテンドーゲームキューブゲームボーイアドバンスXboxなど他社プラットフォームへのソフト供給へ転換することにした。

これに伴い本体200万台の不良在庫整理損(棚卸資産等処分損)や海外販売子会社の清算などが発生し、セガの2001年3月期連結決算で約811億円という当時のゲームメーカーでは最大規模の特別損失を計上する。それまでもドリームキャストの立ち上げと売上不振から、1998年3月期では1988年4月の株式上場以降では初の赤字決算となってしまい、以降2000年3月期までの3期連続で約350 - 430億円の連結純損失を計上した[注 4]

同月末には全世界で売れ残った本機の在庫200万台を日本では9900円という投げ売り状態の破格の定価に改定した。再値下げによって日本市場では売れ行きが好調となったが、2002年前半には一度も優位に立つことはなかった[7]

本体そのものは市場撤退後も直販のドリームキャストダイレクト(後のセガダイレクト)上で新品販売が継続され続け、国内流通品の在庫が尽きた2002年6月頃から海外市場版の本体を日本版のパッケージに巻き直したリアセンブル版の出荷を開始した。リアセンブル版の在庫が無くなった2004年からは修理品の部品を再組立した再生品(リファビッシュ品)の販売が開始された[注 5]。これにより在庫に余裕が生じた事から、一部の新作ソフトが発売される度にソフトとポスターなどをセットにした限定版がセガダイレクト上で発売された。

2007年にこのドリームキャストを最後にセガは家庭用ゲーム機の製造・販売事業から撤退し、家庭用ゲーム市場においては他社のゲーム機向けソフトの開発と販売に専念することとなる。
ハードウェア

日立製作所(後のルネサス エレクトロニクス)が新開発したCPU・SH-4と、英・VideoLogic(後のen:Imagination Technologies)社と日本電気半導体部門(後のルネサス エレクトロニクス)の共同開発によるグラフィック描画エンジンPowerVR2を採用した。これは前世代機であるセガサターンが映像処理用のチップが2基搭載された特異な設計となったため製造コストが高くなった事の反省を踏まえたこと、リスクは高いが国内での製造・調達がしやすいこと、競合製品の初代PlayStationを研究した結果が反映されている[6]。なお家庭用ゲーム機としては初めて法線マッピング専用のハードウェアを備えていた。マーケティング上の理由から、雑誌媒体などで行われた「128bitのゲーム機」というアピールは、SH-4内蔵のベクトル型浮動小数点演算ユニットが32ビット浮動小数点演算を4本同時に行えるため、「32bit×4=128bit」相当ということで、CPUが1命令で扱えるデータのビット長が128bitというわけではない。

OSはセガがマイクロソフト本社およびマイクロソフト日本法人と共同開発したWindows CEのカスタマイズ版を選択することが可能で、DirectXや通信機能に対応している。開発ツールもWindowsベースの物も用意されていた[15]。しかし、メモリ使用効率のオーバーヘッドなどが大きかったため、実際には多くの開発会社は Windows CEを選択せずセガの用意した内製の専用のOSを使用していた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}SEGA製の3Dグラフィック用のライブラリの名称は「Ninjaライブラリ」であった。ディスクドライブ関連のライブラリは「サルサ」と呼ばれていた。WinCEやDirectXとの関連が言及されたのは、社内事情に詳しいものからは宣伝効果を狙ったためだと言われていて、性能も使い勝手のよさもSEGA製のライブラリの方が上だと言われていた[要出典]。
名称
開発中のコードネームは「KATANA」[6]。名前の由来として、刀ではなく「勝たなアカン。」というハード戦争の勝利への願いから来ているというのが定説となっており、セガもこれは誤りではないとしているが[16]、実際は当時開発されていた開発機2台のうち片方がコードネーム「ブラックベルト」、つまり黒帯であり、その黒帯を斬って勝つという意味を込めた物である[17]。「ドリームキャスト」の名称は候補を募り絞っていったもので特定の命名者はいない[18]。dream(夢)をbroadcast(広く伝える)という願いを込めた造語である[19]
筐体
外見はセガサターンと比べて重箱のような正方形に近いアスペクト比で小型・軽量となっている。本体カラーはホワイトのみであるが、後に限定仕様でカラーバリエーションが展開された。ドア左側に電源ボタン、右側にオープンボタンがついており電源が入ると中心の三角形の部分がオレンジ色に光る。背面に1か所、底面に3か所、排熱用の通気口があり、右側にファンを備えた排熱口が設けられている。リセットボタンはついていないが後述のコントローラによるソフトウェアリセットで可能となる(#コントローラの章を参照)。
光学ドライブ
ディスクドライブはトップローディング式。
ロゴ
ドア(トレイ)部分に「シンボルマーク(渦巻きとDreamcastのロゴタイプ)」がある。この渦巻きは地域によって配色が異なり、日本とアジア地域ではオレンジ、北米地域では赤、欧州などコンポジット信号にPALを採用している地域では青が使われている。本体真正面中心に「SEGA」、その右側には「Windows CE」のロゴがそれぞれプリントされている。
端子
コントローラポートを4個装備し、コントローラーや周辺機器の同時接続が可能である。ただし、ポートを分配するマルチタップは存在せず、最大接続台数は4台までとなる。背面にはAC電源端子・映像出力端子・シリアル端子と、本体出荷時にはモデムが装着されているエクステンションポートがある。エクステンションポートに接続できる機器として、モデム・ブロードバンドアダプターの他に2001年(平成13年)発売の「ドリームキャスト・カラオケ」と、開発中止となったアイオメガZipドライブ[20]の存在が確認されており、この2つは同社のメガCD及び、任天堂のサテラビュー64DDと同じく本体の下に置き重ねて接続する形態となっていた。対応したゲームに限られるものの周辺機器の「VGAボックス」を使用してパソコン用のディスプレイテレビVGA端子に接続し、VGA・31kHz出力のVGA解像度画面でゲームを遊ぶことができた。


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