ドリス・レッシング
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ドリス・メイ・レッシング
Doris May Lessing

誕生Doris May Tayler
ドリス・メイ・テイラー
(1919-10-22) 1919年10月22日
イランケルマーンシャー
死没 (2013-11-17) 2013年11月17日(94歳没)
イギリスロンドン[1]
職業作家
国籍 イギリス
ジャンル小説ノンフィクション
主な受賞歴サマーセット・モーム賞(1954)
メディシス賞外国小説部門(1976)
オーストリア国家賞(1981)
アストゥリアス皇太子賞(2001)
ノーベル文学賞(2007)
デビュー作『草は歌っている』
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ノーベル賞受賞者
受賞年:2007年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:「女性の経験を描く叙事詩人であり、懐疑と激情、予見力をもって、対立する文明を吟味した」 ⇒[1]

ドリス・メイ・レッシング(Doris May Lessing、1919年10月22日 - 2013年11月17日)はイギリス人作家。2007年にノーベル文学賞を受賞した。
目次

1 経歴

1.1 生い立ち

1.2 作家活動

1.3 受賞歴


2 主な著作

2.1 長篇小説

2.2 短篇小説集

2.3 戯曲

2.4 詩集

2.5 エッセイ

2.6 ノンフィクション


3 原作作品

4 研究書

5 脚注

6 外部リンク

経歴
生い立ち

1919年ペルシャ(現イラン)のケルマーンシャーで、イングランド人の父アルフレッドと母エミリーの娘として生まれ、ドリス・メイと名付けられる。父アルフレッド・テイラーは、第1次世界大戦に従軍中に片足を失い、入院中にロイヤルフリー病院で担当した看護師エミリー・マックヴェイと出会って、結婚する。アルフレッドはその後、職を求めてペルシャに移住し、ペルシア帝国銀行に勤めた。ドリスが3歳の時にテヘランに移り、5歳の時にイギリスへ帰国、その半年後の1925年に、南ローデシア(現ジンバブエ)に1000エーカーの土地を購入して、移住しトウモロコシの栽培を始めたが、生活は楽ではなかった。

ドリスは幼い頃から本に親しみ、ドリスのために母はイギリスから多くの本を取り寄せてくれた。ソールズベリー(現ハラレカトリック系の女学校であるドミニカ女子高等学校に入学するが、14歳で中途退学、以後独学を続けた。15歳で家も離れると、ヨハネスブルグやソールズベリー近くで、看護婦やメイドとして働き始めた。この時、雇い主からもらった政治や社会学の本を読み始め、一旦農場に戻り、習作を書き始めた。19歳で電話交換手に転職すると、すぐにイギリスの現地官吏フランク・ウィスドムと結婚、2人の子供をもうけたが1943年に離婚し、子供とも別れる。人種問題に関心を持ち始め、亡命ドイツ人達のマルクス主義運動に参加し、活動を通じて知り合ったドイツ人移民ゴットフリート・レッシングと1945年に再婚し一男をもうけるが、1949年に離婚した。現在の「レッシング」という姓はこの夫のものである。この間に、地方誌に詩や短編を発表する。
作家活動

1949年に息子と共にイギリスに渡り、翌1950年に帰国前に執筆していた、ローデシアを舞台とした自身初の著書『草は歌っている』(The Grass is Singing)を出版し好評となる。1952年からは『マーサ・クエスト』(Martha Quest)を始めとする「暴力の子供たち」5部作を発表。やがて共産党に入党し、1954年からは党の出版活動に従事するが、1956年に離党。原水爆禁止運動にも積極的に参加していた[2]。その後も共産党の有力な支持者として20年間に亘ってMI5に監視されていた[3][4]。また1950年代の「怒れる若者たち」のエッセイ集『宣言(Declaration)』に「小さな個人の声」を寄せて、作家が現実に積極的に関与すべきことを述べている[5]。1962年に女性の自立、様々な差別などの社会問題を題材にした『黄金のノート』(The Golden Notebook)を出版、この作品によって当時のウーマン・リブ運動の理論的指導者とみなされるが、自身は運動への参加を拒否した。

1974年には、最終戦争後のイギリスを描いた『生存者の回想』を発表。1979年からは、宇宙の彼方から地球(シカスタ)を眺めて描くSF的な物語「アルゴ座のカノープスシリーズ」を発表する。またこの時期、ジェーン・ソマーズ(Jane Somers)のペンネームで、中年女性の現実を描く2作を書いた。

1980年代にジンバブエを再訪し、村に本を送る活動の組織にも所属した。1982年には講演旅行で来日。『The Making of the Representative for Planet 8』はフィリップ・グラスによりオペラ化され、歌詞はレッシングが担当した。1985年には北アイルランド問題にかかわるテロリストを描いた『善良なテロリスト』が絶賛を浴びた。また南アフリカアパルトヘイトを非難して、1956年から1995年まで入国を禁止されていた。反核運動にも参加。

2013年11月17日に94歳で死去[1]
受賞歴

1954年、短編「Five」でサマセット・モーム賞受賞。1981年オーストリア国家賞受賞。1984年ドイツ連邦共和国シェイクスピア賞受賞。1985年に『善良なテロリスト』でブッカー賞にノミネートされ、W・H・スミス文学賞、モンデッロ賞受賞を受賞した。1989年に『The Fifth Child』でグリンザネ・カヴール賞受賞。

長年ノーベル文学賞の候補となっていたが、2007年に受賞し、ノーベル文学賞では歴代最高齢の受賞者となった。受賞理由は、「女性の経験を描く叙事詩人であり、懐疑と激情、予見力をもって、対立する文明を吟味した」(that epicist of the female experience, who with scepticism, fire and visionary power has subjected a divided civilisation to scrutiny.)、授賞式は腰痛で欠席したが、受賞スピーチのタイトルは「ノーベル賞を取れないことについて(On not winning the Nobel Prize)」だった。
主な著作
長篇小説

The Grass is Singing
(1950) 日本語訳『草は歌っている』山崎勉酒井格訳、晶文社、1970年

A Proper Marriage (1954)

Retreat to Innocence (1956)

A Ripple from the Storm (1958)

The Golden Notebook(1962) 日本語訳『黄金のノート』石村崇史・市川博彬訳、英雄社、1983年(エディ・フォア、2008年)

Landlocked (1965)

The Four-Gated City (1969)

Briefing for a Descent into Hell(1971)

The Summer Before the Dark(1973) 日本語訳『暮れなずむ女』山崎勉訳、三笠書房、1975年(水声社、2007年)

Memoirs of a Survivor(1974) 日本語訳『生存者の回想』大社淑子訳、サンリオ文庫 1984年(水声社、2007年)


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