ドリス・ウィッシュマン
Doris Wishman
生年月日 (1912-06-01) 1912年6月1日
没年月日 (2002-08-10) 2002年8月10日(90歳没)
出生地 アメリカ合衆国・ニューヨーク
死没地 アメリカ合衆国・フロリダ州マイアミ
職業映画監督、脚本家、独立系映画製作者
ジャンルセクスプロイテーション、
ソフトコア、ハードコア
活動期間1960年 - 2002年
配偶者2度結婚。
ジャック・エイブラムス(死別)、
2人目は離婚。詳細不明
主な作品
デッドリー・ウェポン(1973年)
ダブル・エージェント73(1974年)
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ドリス・ウィッシュマン Doris Wishman(1912年6月1日 - 2002年8月10日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、独立系映画製作者。
独学の映画製作者ウィッシュマンは、実験的映画手法、過激な美学で注目され、しばしば「女エド・ウッド」と形容される。彼女の作品の大半は、1960年代・70年代のアメリカのセクスプロイテーション映画市場で公開された。ウィッシュマンは映画史上、最も多作な女性映画監督の1人でもあり、近年カルト信奉者により再認識されている。 1912年6月1日にニューヨーク市で[1]、ウクライナ系ユダヤ人移民の娘として生まれる[2]。父親は飼料と穀物のセールスマン、母親は彼女の幼少期に亡くなった[3]。ニューヨーク市ブロンクス区で育ち、ジェームズ・モンロー高校(James Monroe High School
生い立ち
1940年代後半から1950年代前半にかけて、アート映画とエクスプロイテーション映画を扱う独立系映画配給会社のいとこマックス・ローゼンバーグ
(英語版)のもとで映画の契約担当者として働いた[5]。1950年代にはニューヨーク市で女優としても働き、一時期ジョーゼフ・E・レヴィーンと仕事をしていた[6]。同じ時期に広告コンサルタントのジャック・エイブラムスと結婚しフロリダに住んだ[1]。しかし1958年にエイブラムスが31歳で心筋梗塞により亡くなり、結婚後わずか5か月で未亡人となった[6]。ウィッシュマン自身によればエイブラムスの早すぎる死後、「自身の空白を埋める何かが必要」と感じ映画制作のキャリアをスタートさせた[1]。ウィッシュマンは、1960年から1964年にかけて8本のヌーディスト映画を完成させた。伝説的なバーレスクの女王ブレイズ・スター主演の『Blaze Starr Goes Nudist』(1962年)、『Other titles include Hideout in the Sun 』(1960年)、『Diary of a Nudist 』(1961年)、『Gentlemen Prefer Nature Girls 』(1962年)、『Playgirls International 』(1963年)、『Behind the Nudist Curtain 』(1963年)、『The Prince and the Nature Girl 』(1964年)。そして、ウィッシュマンのヌーディスト映画中、最も奇想天外な作品が、伝統的なヌーディストという素材をSFと組み合わせようと試みた、1961年の『Nude on the Moon 』である。商業的な可能性が失われた時点で、ウィッシュマンはヌーディストのジャンルに見切りをつけた。 1960年代中頃、ウィッシュマンはセクスプロイテーションのジャンルで活動を始めた。この期間のウィッシュマンは、何本かの映画で「ルイス・シルヴァーマン (Louis Silverman) 」名義で監督している。 『Bad Girls Go to Hell
1965年 - 1970年のセクスプロイテーション期
ウィッシュマンのセクスプロイテーション時代の他の映画として、『The Sex Perils of Paulette 』(1965年)、『Another Day, Another Man 』(1966年)、『My Brother's Wife 』(1966年)、『A Taste of Her Flesh 』(1967年)、『Indecent Desires 』(1967年)、『Too Much Too Often! 』(1968年)が挙げられる。全てモノクロームで撮られた。その後の『猟奇性犯罪秘録』(1970年)と『処女絶叫/恥戯』(1971年)の2作はカラーで撮られ、実質的には急増しつつあったソフトコアのジャンルに、より近いものとなっている。 1970年代、ウィッシュマンは様々なジャンル、そしてジャンルの混合に挑戦した。『Keyholes Are for Peeping 』(1972年)は、コメディアン、サミー・ペトリロ (Sammy Petrillo)主演のセックス・コメディである。『デッドリー・ウェポン』(1974年)と『ダブル・エージェント73』(1974年)は、73インチ(約185cm)のバストで知られるストリッパー、チェスティー・モーガン主演のスリラー映画である。ウィッシュマンのチェスティー・モーガン主演映画は、彼女の最も有名で最も人気のある映画の一つで、誇張された美学で知られる。1970年代中頃、ウィッシュマンは少なくとも2本のハードコアポルノ映画を監督した。『Satan Was a Lady 』(1975年)と『Come with Me, My Love 』(1976年)は、いずれもパフォーマンスアーティストでポルノ女優のアニー・スプリンクルが主演した。 1971年に製作が開始され、1978年にようやく日の目を見た『Let Me Die a Woman
1971年 - 1983年
1970年代後期にはスプラッター映画に興味が向かい、ウィッシュマンは『A Night to Dismember 』という映画でホラー映画に危険を冒して挑戦し、これは1983年頃完成した。この映画は寄せ集めの構造が目立ち、商業的に失敗し、ウィッシュマンは事実上引退に追い込まれた。 1990年代に彼女の主にカルト的な評価が高まったことにより、人生の後半において、ウィッシュマンは、さらに3本の映画を完成させる事が出来た。セックス・コメディ『Dildo Heaven 』(2002年)、近代セクスプロイテーション映画、『Satan Was a Lady 』(同タイトルの1975年のハードコア映画とは異なる)。遺作となった『Each Time I Kill
再評価と死去
2000年に、ウィッシュマンはエクスプロイテーション映画界で偶像視されるロジャー・コーマン、デイヴィッド・F・フリードマンと並んで、アメリカのエクスプロイテーション映画の盛衰に関するドキュメンタリー映画『SCHLOCK! The Secret History of American Movies』に出演した。