ドライブインシアター
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この項目では、映画上映施設について説明しています。内田真礼のアルバムについては「Drive-in Theater」をご覧ください。
ベルギー・ブリュッセル中心部でのドライブインシアター。空気を入れて膨らませると100フィート幅になるスクリーンを用いて、仮設のドライブインシアターを市街地に設けることができる上映中のドライブインシアター

ドライブインシアター (drive-in theater) は、巨大な駐車場スクリーンを配置し、に乗ったまま映画が鑑賞できる映画上映施設である。DTとも略される。
構造

駐車場に巨大なスクリーンが設置されており、観客の乗った自動車は駐車場内の白線に停まりスクリーンに上映される映画を鑑賞する。音声は、自動車内にあるラジオで受信する方法の他、駐車場にあるポールから音声を引く場合もある。
歴史
ドライブインの誕生1933年にアメリカのニュージャージー州カムデンで開業した最初のドライブインシアター

ドライブインシアターは、アメリカ合衆国ニュージャージー州カムデンフィラデルフィア郊外)で代々化学工場を経営するリチャード・ホリングスヘッド・ジュニア(Richard M. Hollingshead, Jr.)が発明した[1]1932年、ホリングスヘッドは自宅の車道で映画の野外上映のテストを行った。裏庭の樹にスクリーンを釘打ちし、1928年型コダック製映写機を自動車のフードに載せ、スクリーンの後ろに無線機を置いて、自分の乗った車の窓を上げ下げしながら音量を確かめた。また彼は車道に敷かれたブロックを使い、どの車からもスクリーンがはっきり見えるための駐車区画の大きさと配置を確認した。試験を重ねた彼は1932年8月6日に特許出願を行い、1933年5月16日に特許( ⇒U.S. Patent 1,909,537)が与えられた(この特許は17年後、デラウェア地方裁判所で無効を宣告されている)。シドニーのドライブインシアター

1933年6月6日、ホリングスヘッドの経営するドライブインシアターがニュージャージー州カムデン郡のペンソーケン(Pennsauken)のアドミラル・ウィルソン通りで開業した[2][3]。彼はこのとき「どんなに子供が騒がしくても気にせず家族みんなでお越しいただけます」[4]と宣伝している。この劇場はわずか3年間で閉館したが、1934年以後、全米の他の州や都市でドライブインシアターが次々と開業した[5]
ドライブインの全盛期上映中のドライブインシアター、ドイツ

ドライブインシアターがこの時期アメリカの家庭で人気を博した理由には、安心して家族全員で映画を観にいくことができるということがある。自動車の中なら普通の劇場と違い子供が騒いでも他の観客を気にする必要がなく、また騒がしい子供を家で留守番させる心配も、そのためにベビーシッターを雇う必要もないという利点があった。夕方から家族そろって自動車で出かけドライブインで映画を見ることは当時の最も現代的な娯楽であり、第二次世界大戦前には全米で100ほどにまで劇場数は増加した。大戦が終わると帰還兵とその家族を当て込んだドライブインシアターの建設ブームが巻き起こり、1947年に155館だったドライブインシアターは1951年に4,151館にまで激増した[6]

ドライブインシアターは1950年代末から1960年代初頭にブームのピークを迎え、農村部を中心に全米で4,000以上のドライブインシアターがあった[7]。ドライブインシアターは劇場建築とは違い、メンテナンスにかかる費用が低いというのもドライブインシアターが広まった要因であった[6]。乳幼児連れの家族のみならず自動車に乗れるティーンエイジャーもデートに利用した。一方で、夜間のドライブインシアター(特に最後列)では各車内は完全な密室であり、インモラルなことを行う空間と化しているという扇情的な報道もあった。ビートルズのポール・マッカートニーも1964年のアメリカツアー時にエルビス・プレスリーの「アカプルコの海」を見たと帰国後の「レデイ・スタデイ・ゴー」で発言している。バージニア州レキシントンのドライブインシアター。車の停まる場所には、スピーカーがついたポールがあり、このスピーカーを車に掛けて音声を聞く

ドライブインシアターの上映時間は野外が暗くなる夕方以降に限定されているため一般の劇場と比べ収入が少ない欠点があり、この不利を打開するため駐車場全体にテントを張る所もあったが解決には結びつかなかった。

また上映環境の改善も図られた。冬の駐車場は寒く客足が伸びないため、プロパンヒーターなど暖房機の貸出しを行ったり、中には各区画に配管を行い観客の車に冷気や暖気を送り込めるようにした劇場もあったが、こうした配管がネズミの巣となり車内にネズミが侵入する場合もあった。

音響も改善が図られた。当初はトラックの上にスピーカーを置いていたが、スピーカーの近くでは音声がうるさく、遠くでは音声が聞こえない欠点があったため、各区画に小さいスピーカーを設置し、車の側面にスピーカーを取り付けられるようにするところが現れた[8]。しかしこのスピーカーは音質に問題がありステレオ音声は再生できなかった。自動車にカーステレオが標準装備されるようになって以降、劇場内で特定の周波数の電波を発信し、カーステレオが受信して音を再生するという方法がとられるようになった[9]。日本で自動車のアンテナにクリップでコードを繋いで音声を聴く方式も開発され[9]、アメリカのドライブインシアター経営者も、この「CINE-FI(シネファイ)オート・ラジオ・サウンド・システム[10]」を競うように導入し[9]、1978年度の第51回アカデミー賞では、開発したシネファイジャパン(CINE-FI International[10])の関口喜一にアカデミー科学技術賞が授与された[9]

観客を呼ぶために動物園を設けたり、上映している映画の出演俳優を呼んだり、歌手やバンドを呼んで上映前に演奏させたりするドライブインもあり、中には日曜日の朝と夕方に自動車に乗ったままでの礼拝を行うところもあった。

車社会の到来がアメリカ合衆国に比べて遅れた西ヨーロッパでは1950年代末頃から1960年代初頭にかけて徐々にドライブインシアターが現れ、1960年代に普及していった。
衰退オクラホマ州サプルパのルート66沿いにあったドライブインシアターの跡地

1970年代以降、ドライブインを見る世間の目は厳しくなり、車のトランクに入って駐車場に入りタダ見する観客のことや、家族連れの多くない時間にポルノ映画を上映する劇場などが問題視された。幅広い客が来るドライブインシアターは全年齢向けの映画しか上映できず、ポルノ上映はこれに違反していた。フロリダ州ジャクソンビルのように、ドライブインシアターでヌードシーンを含む映画を上映することを禁止する条例を制定した街もあった。もっとも、アメリカ合衆国最高裁判所で争われた「エルズノズニック対ジャクソンビル市事件」では、「ヌードシーンの有無のみで映画上映の可否を判定するジャクソンビル市の条例は表現内容に基づく規制であり、条例は違憲なため無効である」という結論になった。

地価の上昇は、広い土地を必要とする一方、夜しか営業できず大雨では上映中止となり冬の観客も少ないドライブイン経営には打撃になった。サマータイム導入が全米の各州に広がったことも、暗くなる時間が遅くなったためドライブインには不利になった。また家庭でのカラーテレビビデオテープレコーダの普及、レンタルビデオの登場で、家族全員で映画を見る際のプライバシーの問題も解決され、ドライブインシアターの需要は低下した。

こうして徐々にシアターの数は減り、アメリカでは山地や離島など辺鄙な土地で残っているほかは、映画を楽しむというより昔を懐かしむための施設となった傾向が強い。2000年代半ばの原油価格の上昇、経済の悪化、2010年代の自動車移動の減少と人口の郊外や地方からの流出、上映方式のフィルムからデジタル方式への転換のための投資負担、などドライブインシアターには逆風が吹き続け、シアター数は減少し続けた。2013年にはアメリカの全スクリーン数のうちドライブインシアターは389館とわずか1.5%を占めるにとどまり、ほとんどは南部と西海岸に集中していた(ドライブインシアターの全盛期には、アメリカ全土のスクリーン数のうち25%までがドライブインシアターであった)[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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