ドメニコ・スカルラッティ
[Wikipedia|▼Menu]

ドメニコ・スカルラッティ
Domenico Scarlatti

基本情報
生誕1685年10月26日
ナポリ王国 ナポリ
死没 (1757-07-23) 1757年7月23日(71歳没)
スペイン帝国 マドリード
ジャンルクラシック音楽
職業作曲家
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

ジュゼッペ・ドメニコ・スカルラッティ(Giuseppe Domenico Scarlatti, 1685年10月26日 - 1757年7月23日)は、イタリアナポリ出身で、スペインマドリードで没した作曲家。現在では、もっぱら民族色豊かな鍵盤語法が繰り広げられる多数のチェンバロのためのソナタ[1]とチェンバロのための練習曲集によって知られる。
略歴ハープシコード練習曲集 (1738)

1685年、ドメニコは有名な作曲家であるアレッサンドロ・スカルラッティの子として、ナポリに生まれた[2]。10人兄弟の6番目の子だった[2]。スカルラッティ家はバッハ家クープラン家と同様の音楽家の一族だった[3]。幼い頃は「ミモ」の愛称で呼ばれていた[4]。ドメニコが幼少期いつどのように音楽教育を受けたかは定かではない[5]

1701年9月13日にナポリの教会付き作曲家兼オルガン奏者に15歳で就任した[6]。しかしこの頃、ナポリではナポリ副王を狙った暗殺未遂であるマッキア侯の陰謀事件やスペイン継承戦争などの政情不安や、父アレッサンドロの勤めていた宮廷での不定期な給料の支払いによる経済的な不安定さなどから父とともにナポリを去ろうと考えていた[7]。最終的に1702年6月14日より4ヶ月間の休暇を得て、父アレッサンドロとともにフィレンツェへと向かった[8]。フィレンツェではナポリでの政治的な騒乱を避けるため4ヶ月以上滞在し、11月にはナポリに戻ったとされる[9]。この頃、スカルラッティの最初のオペラである「オッタヴィーア」と「ジュスティーノ」が1703年12月19日に初演された[9]。父の命令によって1705年にヴェネツィアに移った[10][11]。この頃、ピエタ教会に足繁く通っていたとされ、また同教会で聖歌隊の指揮をしていたフランチェスコ・ガスパリーニのもとで音楽的な訓練を受けていたと考えられる[12]。1709年からはローマに住み、同地に当時亡命していたポーランド王妃マリー・カジミールの音楽監督(maestro di cappella)の職を得た[13]。また、サン・ピエトロ大聖堂のジュリア礼拝堂で働き、1714年末に音楽監督のトンマーゾ・バイが没すると、その後を引き継いだ[10]。この頃、スカルラッティはカジミールのため毎年1作のペースでオペラを作曲した[14]。その多くの作品の台本はスカルラッティと同様にカジミールに仕えていたカルロ・シジスモンド・カペーチによるものを使用している[14]

ローマ時代にはヘンデルとチェンバロおよびオルガンの腕前を競い合ったという逸話がある。チェンバロの勝負においては二人の差はなかったが、オルガンの勝負では明らかにヘンデルが勝っており、スカルラッティもそれを認めたという[15]。しかしこの逸話を証明できる資料は存在しない。

1714年にポルトガル大使のフォンテス侯爵と知り合ったことが機縁で、1719年ポルトガル王ジョアン5世はスカルラッティを王室礼拝堂の音楽監督に任命した[16]。スカルラッティは1719年11月29日にリスボンに到着した。彼はまた王の兄弟であるドン・アントニオおよびマリア・マグダレーナ・バルバラ王女に音楽を教えた[10]

1728年、スカルラッティはイタリアで16歳のマリア・カタリーナ・ジェンティリと結婚した[10]

1729年にマリア・バルバラがスペイン王家の王太子フェルナンドに嫁いだため、マドリードへ移った。

1738年、ジョアン5世はスカルラッティをサンティアゴ騎士団の騎士に叙した。スカルラッティは最初のソナタ集である「Essercizi per gravicembalo」(チェンバロ練習曲集、30曲。K.1-30)を出版し、ジョアン5世に献呈した[10]。スカルラッティの名声はこの曲集によってヨーロッパ中に広がった。最終曲が有名な「猫のフーガ」である。

フェルナンドは1746年にスペイン王フェルナンド6世として即位し、マリア・バルバラは王妃になった。スペインの宮廷ではファリネッリを中心としてイタリア・オペラが盛んになったが、スカルラッティはオペラの作曲には加わらなかった。

1757年にマドリードで没した。小惑星6480 Scarlattiは彼にちなんで1988年に命名された。
主要作品詳細は「ドメニコ・スカルラッティの楽曲一覧」を参照

スカルラッティは鍵盤作品の作曲者として有名であるが、これ以外のジャンル(歌劇や宗教曲など)も遺している。同時代の作曲家と同様に散逸作品が多く、真作の判定が難しいものがある。
歌劇

王位回復したオッタヴィア(33曲のアリアのみ現存)

イレーネ(33曲のアリアのみ現存)

シーロのテティーデ(最後の4ページ消失)

ハムレット

捨てられたディドーネ

管弦楽曲


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef