ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
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ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ
Дмитрий Дмитриевич Шостакович
1950年撮影
基本情報
出生名ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ
Дмитрий Дмитриевич Шостакович
生誕1906年9月25日
ロシア帝国 サンクトペテルブルク
死没1975年8月9日(68歳没)
ソビエト連邦 モスクワ
職業作曲家
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ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(ロシア語: Дмитрий Дмитриевич Шостакович [?dm?itr??j ?dm?itr??j?v??t? ??st??kov??t?] ( 音声ファイル) ラテン文字転写の例: Dmitri Dmitriyevich Shostakovich, 1906年9月25日ロシア暦9月12日) - 1975年8月9日)は、ソビエト連邦時代の作曲家交響曲弦楽四重奏曲が有名である。

シベリウスプロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。また、弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人である。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。

当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていたが、『ショスタコーヴィチの証言[1]が出版されて以後、ショスタコーヴィチには皮肉や反体制、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した悲劇の作曲家」というイメージも加わった。
生涯
略歴1974年当時(一番右の人物)

1906年 9月25日、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクに生まれる。

1915年 春、両親に連れられて初めて劇場を訪れ、オペラ(リムスキー=コルサコフの《サルタン王の物語》)を観る。夏には母親から初めてのピアノのレッスンを受ける。秋、シドルフスカヤ商業学校に入学。作曲を始める。

1916年 グリャッセール音楽学校に入学。

1917年 2月、第一次世界大戦の敗戦が濃厚となる中で起こったロシア革命2月革命 (1917年))を経験。その最中に、街路上で同年配の少年が警官に殺害されるのを眼前で見る。同月、グリャッセールへ通う興味を失う。

1918年 秋、ローザノヴァにピアノを師事。(1917年とも)

1919年 第108労働学校が閉鎖。ユストニナ校に転校。秋、サンクトペテルブルク音楽院に入学。グラズノフに師事する。

1921年 ユストニナ校を中退。

1922年 父が死去。

1923年 音楽院のピアノ科を修了。夏休みを利用した結核療養のために訪れたクリミアで、初のピアノ・リサイタルを開く。

1924年 ヨシフ・スターリンソビエト連邦の最高指導者となり、スターリンのイデオロギー(スターリニズム)がその後の作曲活動に大きな影響を与えることとなる。11月、映画館「スヴェトラーヤ・フィリム」でピアノ伴奏のアルバイトを始める。

1925年 作曲科の修了にともない、音楽院を卒業。修了制作として交響曲第1番を作曲。

1926年 5月16日、交響曲第1番初演。秋、音楽院の大学院課程に進学。

1927年 1月、第1回ショパン国際ピアノコンクールに出場。

1928年 メイエルホリド劇場の音楽部長として1月から3月まで務める。

1930年 バレエ『黄金時代』を作曲。

1931年 バレエ『ボルト』を作曲。『黄金時代』と『ボルト』は両曲ともレニングラードで初演し失敗したものの、ショスタコーヴィチの音楽は好評であった。

1932年 科学者ニーナ・ヴァルザルと結婚。婚約記念として書き始められた歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を彼女に献呈。8月、作曲家同盟レニングラード支部の運営委員に選出。

1933年 軽音楽に関するレニングラード市の委員会の委員になる。ピアノ協奏曲第1番初演。

1934年 スターリンによる大粛清が吹き荒れる情勢化にあって、レニングラード市アクチャーブリ区の区議会議員に選出される。同年は、第17回党大会の1,966人の代議員中、1,108人が逮捕され、その大半が銃殺刑となった年。1930年代の大粛清は議員のみならず一般市民にまで及び、強制収容所送りや即決裁判による死刑が横行し、ショスタコーヴィチの作曲活動にも暗い影を落とす。

1936年 歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1月)とバレエ『明るい小川』(2月)に対するプラウダ批判。5月30日、長女ガリーナ生誕。

1937年 春(一説には1月)、レニングラード音楽院に講師として勤務(後に教授)。交響曲第5番を作曲、初演(11月21日)。この作品の成功により名誉を回復。

1938年 5月10日、長男マクシム生誕。

1939年 ムソルグスキー生誕100周年記念祭の準備委員会の委員長となる。音楽院で教授に就任。

1940年 5月、労働赤旗勲章受章。ピアノ五重奏曲スターリン賞を受賞。

1941年 交響曲第7番を作曲。翌年の初演は成功を収め、同年アメリカでも演奏された。レニングラード音楽院教授を辞任。

1942年 1月、交響曲第7番がスターリン賞第1席受賞。ロシア共和国功労芸術家の称号を授与。

1943年 3月、モスクワ音楽院教授に就任。国歌コンクールに参加。

1946年 ピアノ三重奏曲第2番がスターリン賞第2席を受賞。


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