フランスの政治家ドミニク=マリー=フランソワ=ルネ・ガルゾー・ド・ビルパンDominique Marie Francois Rene Galouzeau de Villepin
2010年3月30日
生年月日 (1953-11-14) 1953年11月14日(70歳)
出生地フランス領モロッコ
ドミニク・ド・ビルパン(フランス語:Dominique de Villepin[1]、1953年11月14日 - )は、フランスの政治家・作家・外交官・弁護士。本名はドミニク=マリー=フランソワ=ルネ・ガルゾー・ド・ビルパン(Dominique Marie Francois Rene Galouzeau de Villepin)。ジャック・シラク政権で第18代フランス首相を務めた。
呼び名については貴族称である前置詞 "de" を略し、ビルパン(ヴィルパン)という呼称が使用されることがある[2]。
名前に"de"と付いているが、貴族階級の出身では無い。 1953年11月14日にモロッコの首都であるラバトに誕生する。青少年期はアフリカ・ニューヨーク・カラカスで過ごし、帰国後はトゥールーズにあるイエズス会系私立のリセに通った。バカロレアに合格し、パリ第10大学、パリ第2大学(パンテオン・アサス)法学専攻を経て、パリ政治学院から1978年、フランス国立行政学院(ENA)入学。ENA卒業後の1980年にフランス外務省に入省。ワシントン・ニューデリー勤務を経て、保守派の有力政治家であったジャック・シラクの外交面での側近として頭角をあらわしていった。 1995年にジャック・シラクが勝利した大統領選挙で貢献し、エリゼ宮(大統領府)官房長官に抜擢。1997年にはシラクにフランス国民議会解散を強く進言するが、選挙では与党が大敗。辞表を提出するがシラク大統領は受け入れず、2002年まで務めることになった。 2002年にフランスのジャン=ピエール・ラファラン内閣で外務大臣に就任した。 イラク戦争開戦を強行しようとしたアメリカに対して強く反対した。アメリカのドナルド・ラムズフェルド国防長官から「(開戦反対の)フランスとドイツは古いヨーロッパだ」と皮肉られると、国際連合安全保障理事会で「フランスは古い国だからあえて反対する」と切り返した。その外交姿勢はド・ゴール主義にとても近いといわれている。折から高まっていたイラク反戦の世界的な世論に、ド・ビルパンの国際連合での演説は強くアピールし、シラクの側近官僚というイメージから、一躍大統領候補として注目されていくようになった。 2004年からジャン=ピエール・ラファラン内閣で内務大臣を務めた。 2005年5月31日に欧州憲法批准の国民投票で反対が半数を超えたことによるラファランの首相職辞任を受けて、後任の首相となった。 2005年パリ郊外暴動事件では暴動鎮圧を計るため暴動のきっかけとなった警察が感電死させたとされる死亡したフランス移民の遺族に対して事件の調査を行うと約束したが、暴動の鎮圧とまで至らなかった。
来歴
首相