ドミニク・アングル
[Wikipedia|▼Menu]

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
Jean-Auguste-Dominique Ingres
ポートレイト (1855年)
誕生日 (1780-08-29) 1780年8月29日
出生地 フランス王国モントーバン
死没年1867年1月14日(1867-01-14)(86歳)
死没地 フランス帝国パリ
国籍 フランス
運動・動向新古典主義
芸術分野絵画
代表作『男のトルソ』(1800)
浴女』(1808)
『奴隷のいるオダリスク』(1840)
『モワテシエ夫人』(1856)
『グランド・オダリスク』
受賞レジオンドヌール勲章
影響を受けた
芸術家アンドレア・デル・サルトフラ・バルトロメオティツィアーノレオナルド・ダ・ビンチラファエロ・サンティハンス・ホルバインジョルジュ・ド・ラ・トゥールジャック=ルイ・ダヴィッドジョゼフ・ロック
影響を与えた
芸術家フランチェスコ・アイエツジャン=レオン・ジェロームアレクサンドル・カバネルウィリアム・アドルフ・ブグローフレデリック・レイトンピエール=オーギュスト・ルノワールエドガー・ドガポール・セザンヌパブロ・ピカソアンリ・マティスマルセル・デュシャン
テンプレートを表示
『グランド・オダリスク』(横たわるオダリスク) 1814
ルーヴル美術館蔵
"La Grande Odalisque"

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(フランス語: Jean-Auguste-Dominique Ingres、 1780年8月29日 - 1867年1月14日)は、フランス画家19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を継承、特にダヴィッドがナポレオンの没落後の1816年ブリュッセルに亡命した後、注目され、古典主義的な絵画の牙城を守った[1]
生涯

アングルはフランス南西部のモントーバン近郊ムースティエに画家、彫刻家、装飾美術家の父ジャン=マリー=ジョセフ・アングル(フランス語版)と母アンヌ・ムレの子として生まれた。父ジョセフは美術家というよりは職人で、化粧漆喰、建築、家具の装飾彫刻、看板描きから音楽まで手広く手掛けていた。アングルも幼少期から絵画とともに音楽も学んでおり、ヴァイオリン奏者としての一面もあった。実際にニコロ・パガニーニ弦楽四重奏団を結成し、パガニーニのスケッチを残している。フランス語で「アングルのバイオリン(フランス語版)」といえば、「(本格的な)趣味」(loisir)を指すようになった[2]

アングルは11歳の時、トゥールーズの美術アカデミーに入学した。1797年パリに出て、新古典派の巨匠、ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門する。1801年『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を受賞した。ローマ賞受賞者には、政府給費生として国費でのイタリア留学が許可されたが、アングルの場合は当時のフランスの政治的・経済的状況のため留学が延期され、1806年にようやくローマのヴィラ・メディチを訪れている。この留学時代に描かれた『スフィンクスの謎を解くオイディプス』、『浴女』(1808年)、『ユピテルとテティス』(1811年)は留学の成果を示すために制作され、フランスの美術アカデミーに送付された作品である。その後、アングルは留学期間が終了したのちもフランスに帰ろうとはせず、1813年にはマドレーヌ・シャペルと結婚、1824年までの長期間イタリアに滞在し、1820年まではローマ、以後1824年まではフィレンツェで活動している。この間、ラファエッロミケランジェロなどの古典を研究し、生活のために肖像画を描きつつ、母国フランスのサロンへも出品していた。『オシアンの夢』(1812年-1813年)、『グランド・オダリスク』(1814年)、『アンジェリカを救うルッジェーロ』(1819年)、『聖ペテロへの天国の鍵の授与』(1820年)などはこの時期の作品である。

長いイタリア滞在の後、1824年のサロンに出品したモントーバンのノートルダム大聖堂祭壇画『ルイ13世の誓願』によって、44歳のアングルはダヴィッドの後継者として、また当時の新しい芸術運動であったロマン主義に対抗する新古典主義の指導者として熱狂的に迎えられた[3]。翌年レジオンドヌール勲章を受け、アカデミー会員にも推されている。10年ほどの母国での活動を経て、1834年(1835年とも)再びイタリアのローマを訪れ、そこでフランス・アカデミーの院長を務めた。1841年には再びパリへ戻り、この頃のアングルは祖国フランスでも押しも押されもせぬ巨匠と目され、1855年のパリ万国博覧会においてはアングルの大回顧展が開催された。

アングルの代表作の1つでもある『トルコ風呂』は、最晩年の1862年の制作であった。円形の画面に退廃的・挑発的な多数の裸婦を描きこんだこの作品は、当時82歳の画家がなお旺盛な制作欲をもっていたことを示している。
作風

ラファエロに対する極めて高い評価[4]、入念に構成された調子の緊密な諧調、形体の幾何学的解釈など、10代の時の最初の師であったジョゼフ・ロックの影響が濃厚であった。職務に追われた繁忙な時期にも傑作を描き上げた。ファイナルバーニッシュをも念頭に置いた平坦なテクスチャーは有名[5]。入念に組み立てられた肌理・テクスチャと徹底的に研鑽された描線、そして緊密な調子の諧調により成立する空間は「端正な形式美」[6]を湛えている。この様式美はセザンヌによって「肉体を全く描かずに済ませた」[7][8]と批判されるほど徹底している。

アングルの美術史理解はその作品群から窺い知れるように広汎であり、且つ結束性が高く、加えて非常に示唆的である。顔料バインダーの運用方法もまた多様であり、数百年の隔絶がある巨匠達の作品の研究にも余念がなかった。その研究の成果として、組織的且つ合理的な方法を「保存が完璧」[9]と讃えられる制作と言説によって的確にのこしている[10][11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:64 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef