ドミトリー・コンスタンチノヴィチ(Дмитрий Константинович, 1860年6月13日 - 1919年1月28日)は、ロシアの皇族。ニコライ1世の孫で、ロシア大公の称号を有した。コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公とその妻アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃(ザクセン=アルテンブルク公女アレクサンドラ)の間の第5子、三男。長くロシア帝国軍で軍務についた。ドミトリーはロシアの国政に関わったことはなかったが、皇帝ニコライ2世の系累であるため、ロシア革命後の1919年、ボリシェヴィキ政府の命令でペトロパヴロフスク要塞の城壁で銃殺された。従兄弟のニコライ・ミハイロヴィチ大公、ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公も、この時ドミトリーと共に処刑された。
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表
話
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歴
ボリシェヴィキ政権によるロシア皇族の殺害
1918年6月12日
ペルミ
ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公
1918年7月17日
イパチェフ館
ニコライ2世皇帝* / アレクサンドラ・フョードロヴナ皇后* / オリガ・ニコラエヴナ大公女* / タチアナ・ニコラエヴナ大公女* / マリヤ・ニコラエヴナ大公女* / アナスタシヤ・ニコラエヴナ大公女* / アレクセイ・ニコラエヴィチ皇太子*
1918年7月18日
アラパエフスク
エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃* / セルゲイ・ミハイロヴィチ大公 / イオアン・コンスタンチノヴィチ公 / コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ公 / イーゴリ・コンスタンチノヴィチ公 / ウラジーミル・パーレイ公爵**
1919年1月28日
ペトロパヴロフスク要塞
ニコライ・ミハイロヴィチ大公 / ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公 / ドミトリー・コンスタンチノヴィチ大公 / パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公
*新致命者として正教会に列聖された者 / **ロマノフ家の一員であるがロシア皇族の称号を有さない者
表
話
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歴
ロシア大公
第1世代
アレクセイ・ペトロヴィチ