ドミティア・ロンギナ
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ドミティア・ロンギナ
Domitia Longina
ローマ皇后
胸像

出生50年代前半

配偶者ルキウス・アエリウス・ラミア(en:Lucius Aelius Plautius Lamia Aelianus)
 ドミティアヌス
子女男児(名前不明)
父親グナエウス・ドミティウス・コルブロ
母親カッシア・ロンギナ
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ドミティア・ロンギナ(Domitia Longina、50年代前半 - 120年代後半頃)はローマ帝国の皇后。フラウィウス朝ローマ皇帝ドミティアヌスの妻であり、執政官も務めたグナエウス・ドミティウス・コルブロ将軍の末娘。ドミティアヌスと結婚するために、最初の夫のルキウス・アエリウス・ラミアとは71年に離婚している。ドミティアヌスとの間には一人だけ息子がいたが夭折しており、この83年の息子の死が夫婦の亀裂の原因だと信じられている。

ドミティアヌスが即位した81年から夫が暗殺される96年までローマ皇后であった。126年から130年の間に死んだとされている。
家族

ドミティア・ロンギナはグナエウス・ドミティウス・コルブロとカッシア・ロンギナの末娘として、50年から55年の間に生まれた[1]。母親の家系は初代皇帝アウグストゥスの直系であり、ドミティアはアウグストゥスの昆孫(曾孫の曾孫)に当たる。そして、ユリウス家の血筋を残す、最後の末裔の一人であった。

父系の伯母にカリグラの皇后であるミロニア・カエソニア(en:Milonia Caesonia)がいる。

姉のドミティア・コルブラ(en:Domitia Corbula)は元老院議員のルキウス・アニウス・ウィニキアヌスと結婚している。

父のコルブロは最も尊敬された将軍かつ元老院議員であった。カリグラ帝治世には執政官を務め、クラウディウス帝およびネロ帝の元で、ゲルマニアパルティアの軍事を指揮している[1]。しかし、ピソの陰謀(en:Pisonian conspiracy)と呼ばれるネロへの反逆計画の陰謀者と家族との間に繋がりがあったため、同陰謀の発覚後失脚させられた。義息アニウス・ウィニキアヌスとアニウス・ポッリオが兄弟共に処刑された一方で、コルブロ自身は自殺を許された[2]

ドミティア自身のドミティアヌスと結婚以前については、70年までに元老院階級のルキウス・アエリウス・プラウティウス・ラミア・アエリアヌス(en:Lucius Aelius Plautius Lamia Aelianus)と結婚したことぐらいしかわかっていない[3]
ドミティアヌスとの結婚
ウェスパシアヌスとティテゥスの治世ローレンス・アルマ=タデマ 『ティトゥスの凱旋』 1885年
構成によってティトゥス(左後方)とドミティア・ロンギナ(左、ドミティアヌスの隣)の不倫関係という噂をほのめかしている[4]

68年6月9日にネロが自殺し、ローマ帝国は四皇帝の年として知られる長い内戦の年に突入する。ガルバオトウィテッリウスの3人が続けざまに蜂起しては失脚し、ウェスパシアヌスの即位でこの内戦は終結する。ウェスパシアヌスは帝国の平和を再度確立し、短期に終わるフラウィウス朝を創設する。71年にウェスパシアヌスは、息子のドミティアヌスと彼の兄の娘であるユリア・フラウィアとでの王朝的な近親婚の取り決めを試みる[5]。しかしこの頃には既に、ドミティアヌスはドミティア・ロンギナとの恋に落ちていた。そして、首尾よくラミアを説得して離婚させ、ドミティア・ロンギナと結婚した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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