ドボイ
[Wikipedia|▼Menu]

ドボイ
Добо?
Doboj
Doboj


基礎自治体

位置

ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるドボイの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯44度44分4秒 東経18度15分6秒 / 北緯44.73444度 東経18.25167度 / 44.73444; 18.25167
行政
ボスニア・ヘルツェゴビナ
 構成体 スルプスカ共和国
 地方ドボイ地方
 基礎自治体ドボイ
市長Obren Petrovi?
SDS
地理
面積 
  基礎自治体域813.9 km2
標高143 m
人口
人口(2009年現在)
  基礎自治体域80,000人
    人口密度  98人/km2
その他
等時帯中央ヨーロッパ標準時 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
市外局番53

ドボイ(セルビア語: Добо?,ボスニア語: Doboj,クロアチア語: Doboj)はボスニア・ヘルツェゴビナ北部の都市及び基礎自治体で、同国を構成する二つの構成体のうちスルプスカ共和国に属する。ドボイはスルプスカ共和国鉄道最大の分岐点で鉄道輸送の要衝である。歴史が古い町の一つである他、ボスニア・ヘルツェゴビナ北部では重要な中心都市の一つである。
歴史
中世

ドボイの居住地として公式での最初の言及は1415年に遡り、ドゥブロヴニク神聖ローマ皇帝シギスムントに発行した特許状である。ドボイ周辺では多くの遺物等が発見されており、石器時代初期から人が住んでいたことも確認されている。ローマ時代にはカストラや居住地などが築かれ、これら周辺の町は1世紀頃に遡る。6世紀になるとスラヴ人がやって来るようになり、バナト・ウソラ地域(Bannate Usora)の一部となる。ドボイ要塞、コトロマニツ要塞は13世紀初期に築かれ、15世紀初期に拡張された。オスマン帝国期の1490年にも拡張されている。新たな石の要塞は、それ以前の9世紀、10世紀に築かれた木や泥、粘土などで築かれた古い要塞の層の基盤上に築かれた。要塞は北方のハンガリーや後のオーストリアやドイツからの敵の侵入を防ぐために重要であった。ゴシック・ローマ様式で築城され、ゴシック建築の塔とローマ様式の窓を有する。ドボイ周辺では中世多くの戦いがあり、要塞の支配権もボスニアとハンガリーの軍の間で多く変化した。ドボイ周辺でのとくに大きな戦いハンガリーとボスニア・オスマン連合との間で1415年8月初めに起こった戦いで、ハンガリー側は手痛い敗北を喫している。その後も、要塞は重要な境界線となり、オスマン帝国ハプスブルクとの間で多くの戦いが行われ、1878年にはハプスブルク側の手に落ちた。
第一次世界大戦・第二次世界大戦

20世紀に起こった第一次世界大戦時、ドボイには最大のオーストリア=ハンガリー帝国によるセルビア人強制収容所が置かれていた。公式の記録によれば1915年12月27日から1917年7月5日までで、兵士や女性や子供を含む合計45,791人が収容された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef