ドバイ
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この項目では、ドバイ市について説明しています。同名の首長国については「ドバイ首長国」をご覧ください。

ドバイ市
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City of Dubai

ドバイのスカイライン


市旗市章

位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯25度16分 東経55度20分 / 北緯25.267度 東経55.333度 / 25.267; 55.333
歴史
開拓1833年6月9日
行政
アラブ首長国連邦
 首長国 ドバイ首長国
 市ドバイ市
人口
人口(2019年9月現在)
  市域3,310,022人
その他
等時帯アラブ首長国連邦標準時 (UTC+4)
公式ウェブサイト : Dubai Municipality Portal

ドバイ(アラビア語: ???‎, ラテン文字転写: Dubayy, IPA: [d??bajj]; 英語: Dubai )は、アラブ首長国連邦ドバイ首長国中心都市アラビア半島ペルシア湾の沿岸に位置する。アラブ首長国連邦における最大の都市であり、人口は約331万人(2019年9月時点)[1]

中東屈指の世界都市並びに金融センターであり、21世紀に入ってから多くの超高層ビルや巨大ショッピングモールを含む大型プロジェクトが建設されるなど、世界的な観光都市となっている。

首長はムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームであり、アラブ首長国連邦の副大統領首相も兼任している。連邦首都アブダビ市を擁するアブダビ首長国がアブダビ市以外にもいくつかの市によって構成されているのに対し、ドバイはドバイ市のみで首長国を構成する、事実上の都市国家である。ただし、首長とは別に市長が置かれ、主に民政を担当している。
歴史
起源

ペルシャ湾に面し、漁業真珠輸出産業の主とする小さな漁村だったこの地に、アブダビの首長ナヒヤーン家と同じバニー=ヤース部族のマクトゥーム家が、1830年代にアブダビから移住。これに伴ってドバイ首長国が建国され、現代に至るドバイの歴史が始まった。1853年に他の首長国と同時にイギリス保護国となる[2][3][4]
近代

統治を担ったイギリスはこの地を、東インド会社が経営する英領インドなど植民地と結ぶ貴重な中継地とした。20世紀になると、歴代首長の推進の下で自由貿易の政策を採ったことで、周辺地域の商人達の拠点となりゆく流れのなかで、中継貿易港としての色合いを濃くしてゆく[2][4]

一方で、もう一つの経済の柱であった真珠採取は20世紀初頭、日本御木本幸吉が養殖真珠の開発に成功したことから産業として成立しなくなり、ドバイの経済に打撃を与えた。これに当時の世界恐慌が重なって社会不安が高まり、1938年には首長派がクリーク南岸のバール・ドバイ地区に、反首長派が北岸のディラ地区に陣取って一触即発の危機を迎えた。この事態を収束させるために首長は地元有力者による議会の開設に同意し、議会は行政改革を行ったものの、やがて首長と対立して議会は解散させられた[5]
勃興

第二次世界大戦が終結した20世紀半ば、この地を近代的な都市にすることを夢見た当時の首長ラーシド・ビン・サイード・アール・マクトゥーム(英語版)の推進により、1959年クウェートからの借金をもとにして社会資本の近代化が図られてゆく。ラーシドはこの借入金でドバイ・クリーク浚渫工事を実施し、中継貿易港としての基礎固めに成功して、以後の大発展の基礎を築いた[6]

1958年のアブダビにおける油田の発見に続く、1966年のドバイ沖の海底油田の発見はこの動きに大きな力を与えた[2][4][7]

起源と勃興

アル・ファヒディ砦。1799年に建設された、ドバイ最古の建造物。現在はドバイ博物館の一部

1960年代

独立ジュベル・アリ

1971年イギリス軍スエズ以東からの撤退に伴って、同年の12月2日、他の6の首長国とともにアラブ首長国連邦をこの地に結成。その副大統領首相となったラーシド首長を指導者に据え、原油依存経済からの脱却の取り組みと産業の多角化を進めてゆく。

その流れのうえで1981年1985年)に開設に至った「ジュベル・アリ・フリーゾーン」 (JAFZ)という名の経済特区と大型港湾、およびナショナル・フラッグ・キャリアとしてのエミレーツ航空の就航開始は、国外資本や外国企業の進出とあわせて「」と「物」の集積地としての発展を急速に促していった[2][7][8][9][10][11]
繁栄世界で最も高い建造物であるブルジュ・ハリーファ

21世紀に入る頃には、従来からの近代化の波を経て、中東における貿易・商業の最大の中心地と呼ばれるまでのメトロポリスに変貌していた。

1970年代からわずか約20年のうちに起こった変化は、都市外観のそれのみならず、経済の石油依存率は半分以下に減じ、GDPの伸びは30倍に達するなど、「中世から近代への急変」との表現をもって語られる激変そのものである[2][7][9][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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