ドネツィク
Донецьк (ウクライナ語)
Донецк (ロシア語)
旗
紋章
ウクライナでのドネツィクの位置
ドネツィク中心部の地図
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ドネツィクウクライナでのドネツィクの位置ウクライナの地図を表示ドネツィクドネツィク (ドネツィク州)ドネツィク州の地図を表示
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度00分10秒 東経37度48分19秒 / 北緯48.00278度 東経37.80528度 / 48.00278; 37.80528座標: 北緯48度00分10秒 東経37度48分19秒 / 北緯48.00278度 東経37.80528度 / 48.00278; 37.80528
国 ウクライナ
ロシア(事実上)
州(オーブラスチ) ドネツィク州
ドネツク人民共和国(事実上)
地区(ラヨン) ドネツィク自治体
創設1869[1]
市制施行1917
区(ラヨン)9行政区
ブジョーンヌイ区
ヴォロシーロフ区
カリーニン区
キエフ区
キーロフ区
クイビシェフ区
レーニン区
ペトロフスキー区
無産階級区
政府
? 市長オレクシー・クレムジン(英語版)
面積
? 都市358 km2
標高169 m
人口(2011年7月1日)[2]
? 都市975,959人
? 密度2,700人/km2
? 都市圏2,009,700人
等時帯UTC+2 (EET)
? 夏時間UTC+3 (EEST)
郵便番号83000 ? 83497
市外局番+380 622, 623
ナンバープレートАН
.mw-parser-output .citation{word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}^ドネツィクは1869年にユゾフカとして設立された
^都市圏の人口は2004年基準
ドネツィク(ウクライナ語: Донецьк[注 1])またはドネツク(ロシア語: Донецк[注 2])は、カルミウス川河畔のウクライナの工業都市である。
1924年まではユゾフカ(Юзовка)、1924年から1929年まではスターリン(Сталин)1929年から1961年まではスターリノ(Сталино)などの名称だったドネツィクは、ドネツィク州の行政的な中心で、歴史的にドンバスでは非公式ながら経済や文化などの主都である。
2014年以降、市内の大半の地域はウクライナ政府の管轄が及んでおらず、親露派分離主義勢力が独立宣言したドネツク人民共和国の支配下に置かれた。現在は「住民投票」の結果を受けてロシア連邦に編入され、ロシアが実効支配を行っている。
歴史ユゾフカ時代に英系の学校として使われていた建物1887年当時のノヴィ・ソヴェトの通りに面した市場
ドネツィクは1869年に創設され、ウェールズの実業家ジョン・ヒューズは製鉄所といくつかの炭鉱をロシア帝国の南のアレクサンドルフカ(Олександр?вка)に建設した。街は当初、ユゾフカと言う名が与えられていた。初期には多くの移民をウェールズ、特にマーサー・ティドビルから受け入れた[1]。
20世紀初め、ユゾフカの人口は約5万人で人口の大部分は近隣のロシア領からで、1917年には都市の地位に達した[2]。主要な地区であるハイゲルゾフカは英国コロニーと名付けられ、イギリスの起源は街並や建築物に反映されている。
ロシア内戦が1918年2月12日に勃発するとユゾフカはドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国の一部となった。共和国は1918年3月20日に第2全ウクライナ議会でウクライナ・ソビエト共和国の独立が発表されると解体された。これは国際的にもロシア共和国にも認知を得ることが出来ず、ブレスト=リトフスク条約に応じて廃止された。1924年にソ連の支配下になると街の名称はスターリンに改称された。当時の街の人口は63,708人で翌年には80,085人となった。1929年に街の名称はスターリノに改称された[3]。飲み水用の水道設備は1931年に55.3 kmのシステムが敷設されるまで街にはなかった。
1933年7月にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国のドネツク州の行政の中心都市となった[2]。1933年に最初の 12 km (7 mi) の下水道施設が導入され、翌年には市内では最初のガス開発が行われた。ナチスからドンバスを解放した兵士を称える、ドンバス解放者の記念碑。
第二次世界大戦の初め頃のスターリノの人口は507,000人で戦後は175,000人であった。1941年のナチス・ドイツのバルバロッサ作戦で街は完全に破壊され、ナチスは1941年10月16日から1943年9月5日まで街を占領していた。イタリアもスターリノの占領に参加していた。街の大部分は戦後に再建された。
ナチス・ドイツが占領していた当時のドネツィクの領域ではユダヤ人ゲットー (en) が形成され、3,000人のユダヤ人が死亡し強制収容所では92,000人が殺された[4]。