ドナー隊
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。
パトリック・ブリーンの日記の28ページ。1847年2月末の状況が記されている。「26日(金曜)(中略)昨日ここでマーフィー夫人がミルト[注釈 1] を食べ始めようと思うと言った。まだそうしてないと思う。悲惨だ」

ドナー隊(ドナーたい、Donner Party)、あるいはドナー=リード隊(Donner-Reed Party)とは、1846年5月にアメリカの東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民のグループである。

さまざまな事件や誤りのために旅程は大幅に遅れ、1846年 - 1847年の冬をシエラネバダ山脈で雪に閉ざされて過ごすことになり、事実上の遭難状態に陥った。開拓民の一部は生存のため人肉食に及んだ。この一件を指して特に「ドナー隊(遭難)事件」「ドナー隊の悲劇」と呼称されることもある。
概要

19世紀半ば当時、アメリカ東部から西部への幌馬車による旅は通常4 - 6か月を要した。しかしドナー隊はユタ州のワサッチ山脈グレートソルトレイク砂漠を横断するヘイスティングスの近道と呼ばれる新ルートを選択した結果、大幅な遅れを出すことになった。荒れた地形と、今日のネバダ州内にあたるフンボルト川(英語版)沿いの旅程で遭遇したさまざまな困難のために、多数の家畜と幌馬車が失われ、グループ内にも分裂が生じた。

1846年11月初頭、一行はシエラネバダ山脈に差しかかる。しかし早い冬の訪れにともなう大雪に見舞われ、高地に位置するトラッキー湖(現・ドナー湖)付近で雪に閉ざされてしまう。やがて著しい食料不足に陥り、12月半ばの時点で幾人かは救けを求めて徒歩で出発した。カリフォルニアから救援が出発したが、救助隊によるドナー隊の発見は1847年2月半ばまで遅れ、この間一行が遭難してからほぼ4か月が経過していた。結局一行87人のうち、生きてカリフォルニアに着いたのは48人であり、多数が生存のため人肉を食べていた。

歴史家は、これをカリフォルニア史と西部開拓史におけるもっとも奇怪で耳目を引く悲劇的事件のひとつとしている[1]
背景ネバダ州のフンボルト川で、テントと幌馬車を利用して野営する1859年の移民団「カリフォルニア・トレイル#統計」を参照

1840年代、アメリカ合衆国では東部の住居から西部のオレゴンカリフォルニアに移り住む開拓民が劇的に増加した。中にはパトリック・ブリーンのように、カリフォルニアをカトリックとしての信仰生活を自由に全うしうる地と見る者もいたが[2]、多くはマニフェスト・デスティニーに触発されていた。これは欧州出身者による北米全域の領有を正当化し植民を推進する思想である[3]。移民の馬車の大部分はミズーリ州インディペンデンスを起点として大陸分水嶺に向かうオレゴン街道をたどり、1日平均15マイル(24キロ)[4] の速度で4 - 6か月かけて踏破した。街道はおおむね川沿いに続き、ワイオミングで比較的馬車の通行が容易な南峠(英語版)に至る[5]。その先の進路はいくつか選択肢があった[6]

ランスフォード・ヘイスティングズオハイオから西部に移った初期の移民であり、1842年にカリフォルニアに入った。そこで未開発の土地に将来性を見出して、入植を促すため『オレゴンとカリフォルニアへの移民の手引き(The Emigrants' Guide to Oregon and California)』を出版した[7]。その中で彼は大盆地を直接横断する経路を紹介したが、これはワサッチ山脈を抜けてグレートソルトレイク砂漠を横断するよう移民を導くものだった[8]。しかしながらヘイスティングズ自身は1846年初頭までこの経路を使ったことはなく、その際はカリフォルニアからブリッジャー砦(英語版)まで移動した。ブリッジャー砦はワイオミング州のブラックスフォーク(英語版)でジム・ブリッジャーがピエール・ルイ・バスケス(英語版)とともに運営していた貧弱な補給処である。ヘイスティングズはこの砦に滞在して自身が提案した道に向けて南に転進するよう旅行者に勧めていた[7]。1846年当時、グレートソルトレイク砂漠の南部を横断したのは記録上ヘイスティングズで史上2人目だったが、2人とも馬車は伴っていなかった[8][注釈 2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:137 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef