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パトリック・ブリーンの日記の28ページ。1847年2月末の状況が記されている。「26日(金曜)(中略)昨日ここでマーフィー夫人がミルト[注釈 1] を食べ始めようと思うと言った。まだそうしてないと思う。悲惨だ」
ドナー隊(ドナーたい、Donner Party)、あるいはドナー=リード隊(Donner-Reed Party)とは、1846年5月にアメリカの東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民のグループである。
さまざまな事件や誤りのために旅程は大幅に遅れ、1846年 - 1847年の冬をシエラネバダ山脈で雪に閉ざされて過ごすことになり、事実上の遭難状態に陥った。開拓民の一部は生存のため人肉食に及んだ。この一件を指して特に「ドナー隊(遭難)事件」「ドナー隊の悲劇」と呼称されることもある。 19世紀半ば当時、アメリカ東部から西部への幌馬車による旅は通常4 - 6か月を要した。しかしドナー隊はユタ州のワサッチ山脈とグレートソルトレイク砂漠を横断するヘイスティングスの近道と呼ばれる新ルートを選択した結果、大幅な遅れを出すことになった。荒れた地形と、今日のネバダ州内にあたるフンボルト川
概要
1846年11月初頭、一行はシエラネバダ山脈に差しかかる。しかし早い冬の訪れにともなう大雪に見舞われ、高地に位置するトラッキー湖(現・ドナー湖)付近で雪に閉ざされてしまう。やがて著しい食料不足に陥り、12月半ばの時点で幾人かは救けを求めて徒歩で出発した。カリフォルニアから救援が出発したが、救助隊によるドナー隊の発見は1847年2月半ばまで遅れ、この間一行が遭難してからほぼ4か月が経過していた。結局一行87人のうち、生きてカリフォルニアに着いたのは48人であり、多数が生存のため人肉を食べていた。
歴史家は、これをカリフォルニア史と西部開拓史におけるもっとも奇怪で耳目を引く悲劇的事件のひとつとしている[1]。
背景ネバダ州のフンボルト川で、テントと幌馬車を利用して野営する1859年の移民団「カリフォルニア・トレイル#統計」を参照
1840年代、アメリカ合衆国では東部の住居から西部のオレゴンやカリフォルニアに移り住む開拓民が劇的に増加した。中にはパトリック・ブリーンのように、カリフォルニアをカトリックとしての信仰生活を自由に全うしうる地と見る者もいたが[2]、多くはマニフェスト・デスティニーに触発されていた。これは欧州出身者による北米全域の領有を正当化し植民を推進する思想である[3]。移民の馬車の大部分はミズーリ州のインディペンデンスを起点として大陸分水嶺に向かうオレゴン街道をたどり、1日平均15マイル(24キロ)[4] の速度で4 - 6か月かけて踏破した。街道はおおむね川沿いに続き、ワイオミングで比較的馬車の通行が容易な南峠(英語版)に至る[5]。その先の進路はいくつか選択肢があった[6]。
ランスフォード・ヘイスティングズはオハイオから西部に移った初期の移民であり、1842年にカリフォルニアに入った。そこで未開発の土地に将来性を見出して、入植を促すため『オレゴンとカリフォルニアへの移民の手引き(The Emigrants' Guide to Oregon and California)』を出版した[7]。その中で彼は大盆地を直接横断する経路を紹介したが、これはワサッチ山脈を抜けてグレートソルトレイク砂漠を横断するよう移民を導くものだった[8]。しかしながらヘイスティングズ自身は1846年初頭までこの経路を使ったことはなく、その際はカリフォルニアからブリッジャー砦(英語版)まで移動した。ブリッジャー砦はワイオミング州のブラックスフォーク(英語版)でジム・ブリッジャーがピエール・ルイ・バスケス(英語版)とともに運営していた貧弱な補給処である。ヘイスティングズはこの砦に滞在して自身が提案した道に向けて南に転進するよう旅行者に勧めていた[7]。1846年当時、グレートソルトレイク砂漠の南部を横断したのは記録上ヘイスティングズで史上2人目だったが、2人とも馬車は伴っていなかった[8][注釈 2]。
カリフォルニア行きの旅における最大の難所は、シエラネバダ山脈を横断する最後の100マイル(160キロ)である。この山脈は海抜1万2,000フィート(3,700メートル)超の峰を500以上擁し[9]、標高と太平洋の近さゆえに北米でも有数の豪雪地帯である。また山脈の東側はきわめて険しい[10]。ミズーリを発って広大な荒地を越え、オレゴンやカリフォルニアに至るには、時期が非常に重要であり、春の雨による泥濘や9月以降の山地の豪雪で馬車の車輪を取られてはならないし、また牛馬の餌となる十分な青草を確保できる必要もある[11]。 1846年春、ミズーリ州のインディペンデンスから500近い幌馬車が西部を目指し出発した[12]。その後尾に[13] ドナー家とリード家およびその使用人の総勢32人が乗り込む9台の幌馬車からなる一団があり[14]、5月12日に出発した[14]。ジョージ・ドナー
ドナー隊の構成家族と形成経緯
ジェイムズ・リード(英語版)は45歳のアイルランド系移民で、1831年にイリノイ州に移住していた。同行者は妻マーグレット(32)、養女ヴァージニア(13)、実の娘マーサ・ジェーン通称"パティ"(8)、息子ジェイムス(5)とトーマス(3)、およびマーグレットの母サラ・キース(70)である。サラ・キースは末期の肺結核を病んでおり[17]、5月28日に死去して路傍に埋葬された[18]。リードは移住するにあたり、経済的な悩みの打開のほかに、カリフォルニアの気候が長らく体調不良だったマーグレットの健康に利することを期待していた[19]。