ドナルド・ウィルズ・ダグラス・シニア
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ドナルド・ウィルズ・ダグラス・シニア
Donald Wills Douglas Sr.

生誕 (1892-04-06) 1892年4月6日[1]
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
死没1981年2月1日(1981-02-01)(88歳)
アメリカ合衆国 パームスプリングス
出身校トリニティ教会学校[2]
海軍兵学校
マサチューセッツ工科大学
配偶者シャーロット・マルグリット・オーグ
子供5人
受賞法学博士カリフォルニア大学ロサンゼルス校
レジオンドヌール勲章
ダンネブロ勲章
フランクリン・メダル
米国科学アカデミーからのNAS航空工学賞[3] など
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ドナルド・ウィルズ・ダグラス・シニア(英語: Donald Wills Douglas Sr.、1892年4月6日 ? 1981年2月1日)は、アメリカ合衆国の実業家、エンジニア。ダグラス・エアクラフト(後のマクドネル・ダグラス)を創業した航空界のパイオニアとして知られる。
前半生

1892年4月6日にニューヨーク州ニューヨークブルックリン区にて、ナショナルパーク銀行(英語版)の行員の息子として誕生した。スコットランド系の家系であり、トリニティ教会学校に通った[2]

1909年に卒業後はメリーランド州アナポリス海軍兵学校に入学した。この前年の秋には16歳であったダグラスは、母親を説得してフォートマイヤー(英語版)でのライトフライヤー号の試験飛行を見に行っており、既に航空機マニアとなっていた。その後彼はアナポリスの寮の部屋でゴムバンドやその他のモーターを使った飛行機の模型を作っては、アカデミーの敷地内や兵器庫でテストしていた。1912年に彼は航空工学のキャリアを追い求めて兵学校を辞めた。

グローバー・ローニング(英語版)とグレン・カーチスに就職を断られたダグラスは、マサチューセッツ工科大学に入学した。彼は航空工学で初めて理学博士を本来は4年のマサチューセッツ工科大学のコースを半分の期間で卒業し、残りの期間はジェローム・ハンセーカー(英語版)教授の助手を務めた[4]
初期の技術者としてのキャリア

1915年にダグラスはシコルスキー社に入社し、海軍初の飛行船であるDN-1の設計に参加した。1915年8月にダグラスはグレンマーチン社に入社し、23歳の時にチーフエンジニアとしてマーチンS(英語版)水上機を設計した。グレン・マーチン社がライト社と合併してライト・マーチン社(英語版)となった直後、ダグラスは1916年11月に辞職し、アメリカ陸軍通信隊(英語版)航空部門の民間航空技師長に就任した。その後まもなく、ダグラスはオハイオ州クリーブランドにあった、新たに設立されたグレン・L・マーチン社に戻り、再びマーチン社の主任技術者となった。ダグラスはそこでマーチンMB-1(英語版)爆撃機を設計した[5][6]

1920年3月にダグラスは年収1万ドル(2019年の12万8000ドルに相当)あった仕事を辞めてカリフォルニアに戻り、1916年にシャーロット・マルグリット・オーグと出会って結婚した。2人の間で長男のドナルド・ウィルズ・ダグラス・ジュニアら4人の息子と娘1人が誕生した[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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