ドナテルロ
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この項目では、イタリアの彫刻家について説明しています。イタリアの競走馬、ドナテッロについては「ドナテッロ (競走馬)」をご覧ください。

ドナテッロ
ウフィツィ美術館(フィレンツェ)ファサードのドナテッロの彫像。
本名Donato di Niccolo di Betto Bardi
誕生日1386年頃
出生地 イタリアフィレンツェ
死没年1466年12月13日
死没地 イタリアフィレンツェ
国籍 イタリアフィレンツェ共和国
運動・動向初期ルネサンス
芸術分野彫刻
代表作『聖ゲオルギウス像』
ダヴィデ像
『ガッタメラータ騎馬像』
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ドナテッロ(: Donatello、 1386年頃 - 1466年12月13日)は、ルネサンス初期イタリア人芸術家、金細工師彫刻家フィレンツェ共和国出身で、出生名はドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディ (: Donato di Niccolo di Betto Bardi)。日本ではドナテルロと表記する場合もある。ドナテッロは立像や浅彫のレリーフを制作した彫刻家として有名だが、透視図法を使用した錯視的表現の発展にも寄与した、最重要な芸術家のひとりである。
若年期『洗礼者ヨハネ像』(1455年 - 1457年)
シエナ大聖堂シエーナ

ドナテッロは、フィレンツェの毛織物ギルドの一員だったニッコロ・ディ・ベット・バルディの息子として、1386年ごろにフィレンツェで生まれた。幼少期のドナテッロはマルテッリ家の邸宅内で教育を受けたと考えられている[1]。ドナテッロが最初に芸術家としての教育を受けたのは金細工師の工房だったのではないかとも言われているが、ルネサンス初期のフィレンツェを代表する彫刻家ロレンツォ・ギベルティの工房で一時的に働いていたのは間違いない。

ドナテッロはローマで1404年から1407年にかけて、フィリッポ・ブルネレスキとともに、習作の制作や彫刻制作助手などの職を得た。ローマでのこの二人の仕事ぶりは当時の美術品収集家たちに高く評価され、ドナテッロは金細工師として生計を立てるようになった。この時期のドナテッロとブルネレスキのローマ滞在中の経験が、後の15世紀イタリア芸術の方向性を決定づけることになる。ブルネレスキはローマでパンテオンなどの古代ローマ建築に感化を受け、その影響を自身の作品に反映させるようになった。後にブルネレスキの設計による建築物とドナテッロの手による彫刻作品は、当時の美術界においてきわめて高い精神性を表現したものとされ、同時代の芸術家たちに非常に大きな影響を及ぼすこととなった。
フィレンツェの作品『福音記者聖ヨハネ像』(1409年 - 1415年)
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ドゥオーモ付属美術館(フィレンツェ)

ドナテッロはフィレンツェで、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂サン・ジョヴァンニ洗礼堂の北側扉の装飾制作をロレンツォ・ギベルティと争った。最終的に北側扉の制作にあたったのはドナテッロで、この仕事に対する支払がなされたのは1406年11月と1408年初頭のことだった。1409年から1411年頃から、大きな『福音記者聖ヨハネ像(サン・ジョヴァンニ像)』の制作に携わっている。この坐像は1588年までサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ファサードに安置されていたが、ファサード改築に伴って撤去され、現在は大聖堂付属のドゥオーモ付属美術館 (en:Museo dell'Opera del Duomo (Florence)) に所蔵されている。『福音記者聖ヨハネ像』は、それまでの後期ゴシック様式とは一線を画し、マニエリスム様式までの人物彫刻像における自然主義の追求と人間の感情表現に新境地をもたらした重要な彫刻作品といえる[2]。顔、肩部、胸部には理想化されたゴシック的表現が見られるものの、手、衣服、脚部は写実的な表現で制作された人物彫刻である。

1406年から、サンタ・クローチェ聖堂の『キリスト磔刑』も制作している。この彫刻のキリストの表情は半開きの目と口をした苦悶に満ちたもので、その姿勢も十字架からずり落ちようとする苦痛に溢れる写実的表現で描写されている。『聖マルコ像』(1411年 - 1414年)
オルサンミケーレ教会(フィレンツェ)

1411年から1413年にかけて、ドナテッロは麻織物組合の依頼でオルサンミケーレ教会 (en:Orsanmichele) の壁龕に『聖マルコ像』(en:St. Mark (Donatello)) を、1417年には甲冑制作組合のために『聖ゲオリギオス像』をそれぞれ制作している。『聖ゲオルギオス像』の基台にあしらわれた優美なレリーフ『聖ゲオリギオスとドラゴン』は、彫刻に一点透視図法を導入した最初期の作品といわれている。1423年には、現在サンタ・クローチェ聖堂が所蔵する『トゥールーズの聖ルイ像』を制作した。この『トゥールーズの聖ルイ像』には、ドナテッロが彫刻を施した収納用のタベルナクル(天蓋付壁龕)が付属していたが、1460年にヴェロッキオの彫刻『聖トマスの不信』の収容用に転用するためにサンミケーレ教会へと売却されている。

ドナテッロは1415年から1426年に、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ジョットの鐘楼のために5点の彫像を制作している。『髭のない預言者』(1415年以降)、『髭のある預言者』(1415年以降)、『イサクの犠牲』(1421年)、『預言者ハバクク』(1423年 - 1425年)、『預言者エレミヤ』(1423年 - 1426年)で、古代ローマの演説家のような外観を与えられた、詳細な造形描写に特徴がある彫刻群である。

1425年から1427年にミケロッツォ・ディ・バルトロメオと協同で、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂で対立教皇ヨハネス23世の霊廟制作に取り掛かった。この霊廟を飾る彫刻のうち間違いなくドナテッロ作と考えられているのは、仰向けに横たわる故人のブロンズ像である。1427年には、ナポリのサンタンジェロ・ア・ニーロ聖堂の枢機卿リナルド・ブランカッチ霊廟 (en:Tomb of Cardinal Rainaldo Brancacci) に使用する大理石飾りパネルをピサで完成させている。また、同じ時期にシエーナのサン・ジョヴァンニ洗礼堂 (en:Battistero di San Giovanni (Siena)) の依頼で『ヘロデ王の饗宴』のレリーフ、『信仰』と『希望』の彫刻も制作している。ダヴィデ像』(1440年頃)
バルジェロ美術館(フィレンツェ)

1430年ごろに、当時の芸術家の重要なパトロンだったフィレンツェの銀行家コジモ・デ・メディチが、自身の邸宅であるメディチ・リッカルディ宮殿 (en:Palazzo Medici Riccardi) の装飾用として、ドナテッロに旧約聖書の登場人物ダヴィデのブロンズ像制作を依頼した。左足で刎ねたゴリアテの首を踏みつけ、右手に剣を下げたダヴィデを表した、現在フィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するこの彫像こそが、古代以降で初めての裸体の立像とされる、ドナテッロの彫刻中でもっとも有名な作品である。それまでの人物彫刻とは全くかけ離れた作風で当時のどの様式にも似ておらず、無慈悲、不合理に打ち勝とうとする都市国家の理念を完璧に表現した作品であるとして、最初の重要なルネサンス彫刻という高い評価を与えられている。

『ダヴィデ像』には同性愛が表現されており、これはドナテッロの性的嗜好を反映していると考える研究者も存在する[3]。あくまでも推測の域を出るものではないが、たとえば歴史家ポール・ストラザーンは、ドナテッロが自身の同性愛嗜好を隠しておらず、その素行も友人たちに容認されていたと主張している[4]。確かに15世紀、16世紀のフィレンツェ共和国では、同性愛は決して珍しいというわけではなかった。しかしながら、ドナテッロの私生活はほとんど知られておらず、当時のフィレンツェの記録には欠落が多いとはいえ[5]、ドナテッロの性的嗜好に関する資料は存在しない[6]

1433年にコジモ・デ・メディチがフィレンツェを追放されたときには、ドナテッロはローマに滞在していたと考えられている。この時期にドナテッロがローマに滞在していたことの証明として、ローマに現存する、サンタ・マリア・イン・アラチェーリ教会 (en:Santa Maria in Aracoeli) の『ジョヴァンニ・クリヴェッリの霊廟』と古代ローマ美術の強い影響が見られるサン・ピエトロ大聖堂の『チボリウム』の2作品をあげることができる。『カントリア』(1433年 - 1438年)
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ドゥオーモ付属美術館(フィレンツェ)


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