ドナウ・ブルガール
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ブルガリア帝国
Црьство бл?гарское



681年 - 1018年

シメオン1世の治世における最大版図

首都プリスカ、プレスラフ(英語版)、スコピエオフリド
皇帝
681年 - 700年アスパルフ(初代)
852年 - 889年ボリス1世(第20代)
893年 - 927年シメオン1世(第22代)
976年 - 1014年サムイル(第26代)
1015年 - 1018年イヴァン・ヴラディスラフ(英語版)(最後)

変遷
成立681年
滅亡1018年

ブルガリアの歴史

この記事はシリーズの一部です。
オドリュサイ王国(460 BC-46 AD)
トラキア
大ブルガリア(632-668)
第一次ブルガリア帝国(681-1018)
第二次ブルガリア帝国(1185-1396)
オスマン時代(1396-1878)
民族覚醒(1762-1878)
ブルガリア公国(1878-1908)
ブルガリア王国(1908-1946)
ブルガリア人民共和国(1946-1990)
ブルガリア共和国(1990-現在)
ブルガリア ポータル
· 話 · 編

第一次ブルガリア帝国(ブルガリア語:Първа българска държава;英語:First Bulgarian Empire)は、7世紀より11世紀前半まで続いた東ヨーロッパブルガリアに栄えた帝国10世紀前半におけるシメオン1世の治世に全盛期を迎えたが、東ローマ帝国によって滅ぼされた。
目次

1 歴史

1.1 建国

1.2 ギリシア正教の受容

1.3 最盛期から滅亡まで


2 歴代君主

3 系図

3.1 ドゥロ家

3.2 ヴォキル家

3.3 クルム家

3.4 コミトプリ家


4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

歴史
建国

7世紀後半、黒海北岸の大ブルガリアから分離してドナウ川下流域のデルタ地帯に侵入してきたドナウ・ブルガール人は、アスパルフ(イスペリフ)を指導者としてこの地方(Praetorian prefecture of the East)の支配者であった東ローマ帝国と戦い、スラヴ人を支配する国家を形成し始めた。彼らは681年に東ローマ帝国と講和を結んでこの地域の支配権を認められ、第一次ブルガリア帝国を建国する。

建国当初のブルガリア帝国はテュルク系遊牧民のブルガール人の部族連合的性格を色濃く残し、君主は有力部族から選ばれる人物でハーンを称号とした。国内ではブルガール語話者のブルガール人[1]は少数派で、支配下には様々な部族に分かれた南スラヴ人が多数おり、ブルガール人は次第にスラヴ語を受け入れ、スラヴ人とブルガール人が一体となって現在のブルガリア人に繋がるテュルク系の要素を濃く残したスラヴ系の集団となっていった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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