ドナウヴェルト
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:バイエルン州
行政管区:シュヴァーベン行政管区
郡:ドナウ=リース郡
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度43分09秒 東経10度46分57秒 / 北緯48.71917度 東経10.78250度 / 48.71917; 10.78250座標: 北緯48度43分09秒 東経10度46分57秒 / 北緯48.71917度 東経10.78250度 / 48.71917; 10.78250
標高:海抜 410 m
面積:77.04 km2
人口:

19,640人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:255 人/km2
郵便番号:86609
市外局番:0906
ナンバープレート:DON, NO
自治体コード:

09 7 79 131
行政庁舎の住所:Rathausgasse 1
86609 Donauworth
ウェブサイト: ⇒www.donauwoerth.de
首長:ユルゲン・ゾレ (Jurgen Sorre)
郡内の位置

地図

ドナウヴェルト(ドイツ語: Donauworth、ドイツ語発音: [do?na?u?vo???t]、アレマン語: Donauwerth)は、ドイツ連邦共和国バイエルン州シュヴァーベン行政管区ドナウ=リース郡に属す大規模郡都市で、同郡の郡庁所在地である。ロマンティック街道沿いの都市であり、観光客も多く訪れる。同時にリヒテンシュタイン公国リヒテンシュタイン家の発祥の地でもある[2]
地理
位置

ドナウヴェルトはシュヴァーベン北部、ヴェルニッツ川、ツーザム川、ケッセル川、シュムッター川がドナウ川に注ぐ河口沿いに位置する。ドウナヴェルトから約12km東でレヒ川がドナウ川に合流する。この都市はシュヴェービシェ・アルプが東に突き出した箇所に位置している。

近隣の都市としては、約40キロ南にアウクスブルク、50キロ東にインゴルシュタット、25キロ北西にネルトリンゲン、85キロ北にニュルンベルクが位置している。
市の構成ドナウヴェルトの中心街

本市は、公式には34の地区 (Ort) からなる[3]。このうち小集落や孤立農場などを除く集落を以下に列記する。

アウフゼスハイム

ベルク

ドナウヴェルト

フェルスハイム

ノルトハイム


リートリンゲン

シェフシュタル

ヴェルニッツシュタイン

ツィルゲスハイム

ツーズム


ドナウヴェルトの集落地理学上の状況

集落地理学の見地から見るとドナウヴェルトは分断された形の都市である。旧市街はヴェルニッツ川とシェレンベルク(丘陵)との間に押し込まれた形で位置している。このため旧市街が引き続き拡大して行く可能性は、自然条件上わずかでしかなかった。そこで、市街地はもっぱら北へ、ベルガー・フォアシュタット(フォアシュタットは旧市街の市門の外側に形成された衛星都市)を経由して伸びって行ったのだが、ここから北はベルク区として分離されている。南はヴェルニッツ川の分流であるクライナー・ヴェルニッツ(小ヴェルニッツ)を挟んでリーダー・フォアシュタット(一般には単に「リート」と呼ばれる)が旧市街と向かい合う。さらに南のヴェルニッツ川本流の対岸には(つまり、リートはヴェルニッツ川の中州にあたる)、バーンホーフスフォアシュタット(駅前の衛星都市)が位置している。しかし、この市街区は鉄道路線によりはっきりと境界がひかれている。旧市街の東側には、ツィルゲスハイマー・フォアシュタットというわずかばかりの市街区が続く。この市街区はドナウ川とシェレンベルクとの間に押し込まれるように存在している。旧市街の南東端のすぐ南側でヴェルニッツ川とドナウ川が合流する。この南側は、旧市街の西側同様、単に川を隔てていると言うだけでなく、この川の氾濫原となる住むには適さない地域である。この結果、西側にほとんど居住者がおらず、南もアウクスブルク街道沿いにわずかに住居があるだけで、中核市区はここで終わっている。こうした地理的な条件によりドナウヴェルトはその各方面に均等に発展して行くという過程を採ることができなかった。やがて居住地は氾濫とは無縁な地区に移っていった。バーンホーフスフォアシュタット西側の、線路の北側にノイデック地区、南側にラムベルク地区が形成された。そのさらに南にはリートリンゲン区が設けられ、市内の重要な住宅地区に発展していった。

市街区が狭く発展の余地がないことから、新たに開発された居住区がパルクシュタットである。パルクシュタットはジュラ台地(シェレンベルク)の裏に造られた住宅地で、第二次世界大戦後に造成されて以後、ドナウヴェルト市の人口のかなりの部分をこの地区が担っている。パルクシュタットは南北に細長い形をしており、幅は500mほどだが、長さは2km以上ある。

パルクシュタットの南東に接してアルフレート・デルプ・カゼルネ(兵舎または官舎)があり、その周辺にあたるシェレンベルクの南斜面のドクトル・レッフェラート通り沿いに住宅地がある。

この他の市区については、他の多くの都市と同様、これまで述べた市区構造とは空間的に隔たって位置している。聖十字架教会遠望。手前の川はヴェルニッツ川。左手のレンガ色の塔は聖母教会の塔である。

こうした都市構造の分裂状態は、しかし、この都市の外観に顕著で魅力的な眺めを与えてもいる。

聖十字架教会が中核市区から西へ登った高台にある。トロイヒトリンゲン方面からやって来る鉄道客らは、数km先からこの教会の西のファサードを眺めることができる。このため聖十字架教会はこの町を特徴づける建築として印象づけられるのである。

旧市街が海抜約410mであるのに対して、パルクシュタットは海抜約500mに位置している。パルクシュタットは市の西側からもよく見える。とくにドクトル・ミヒャエル・ザマー・リング沿いの高い建物がパルクシュタットを特徴づけている。特に南からやって来た場合、パルクシュタットをドナウヴェルトの場所を示す指標となる。アウクスブルク方面から来てジュラ高地が見えたとたんにパルクシュタットの建物が目にはいるからである。

歴史

西暦500年頃には既に最初の核となる入植地が現在のリートに造られた。955年レヒフェルトの戦いに向かう頃、ドナウ川に最初の橋が架けられた。1049年教皇レオ9世によって聖十字架修道院が設けられた。この修道院は、かつてはマンゴルトシュタイン城に組み込まれていた。1193年皇帝ハインリヒ6世によって都市に昇格した[4]

1176年から1266年まで、この都市は帝国レーエンとしてホーエンシュタウフェン家が直接統治していたが、1266年バイエルン公家のヴィッテルスバッハ家に質入れされた。ホーエンシュタウフェン家の単頭の鷲は1530年まで市の紋章に使われていたが、その後双頭の帝国鷲に置き換えられた。

1256年、バイエルン公兼ライン宮中伯ルートヴィヒ2世は、妃マリア・フォン・ブラバントをはっきりしない根拠を基に姦通罪で斬首した。この悲劇的な事件は現在でも定期的に芝居の題材に取り上げられる。

1301年にこの都市は帝国直轄の都市、すなわち帝国自由都市となり、皇帝の直接支配下に置かれた。

バイエルン=ランツフート公ルートヴィヒ9世のこの街での生活はバイエルン戦争のために失われた。

1331年シュヴァーベン都市同盟が締結された。カール4世は巨額の借金のためにこの都市を債権者に割譲しなければならなくなった。我らが聖母教会

1444年から1473年に手狭になった聖ウルリヒ教会に代わる都市教区教会として我らが聖母教会が建設された。

1488年にドナウヴェルトはシュヴァーベン同盟に加盟した。

宗教改革の時代、この街はプロテスタントを支持した。1606年聖マルコの日に起きたいわゆるKreuz-und Fahnengefecht(十字架と旗の戦い)で帝国アハト刑となり、バイエルン公マクシミリアン1世によって統治される担保領地とされた。マクシミリアン1世による刑の執行は有効な諸権利を侵害した。ドナウヴェルトはシュヴァーベン・クライスに属しており、この事態への対応をクライスの長官に委託した。この占領に対する反応が、1608年プロテスタント同盟としてプロテスタント諸侯を団結させたのであった(カトリック側はカトリック連盟を結成)。


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