ドクター・ドレー
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Dr. Dre
ドクター・ドレー (2011年)
基本情報
出生名アンドレ・ロメル・ヤング
生誕 (1965-02-18) 1965年2月18日(59歳)
アメリカ合衆国カリフォルニア州コンプトン
出身地 アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンルギャングスタ・ラップGファンク
担当楽器ラップ、シンセサイザー、ベース、ドラムスシンセベースキーボードドラムマシンサンプラー
活動期間1984年 - 現在
レーベルプライオリティ、デス・ロウアフターマスインタースコープ
共同作業者ワールド・クラス・レッキング・クルー、ロンゾ、N.W.A.2パック、ブラック・ストリート、スヌープ・ドッグネイト・ドッグウォーレン・Gテディ・ライリー50セントイグジビットエミネムケンドリック・ラマーゲーム (ラッパー)

ドクター・ドレー(: Dr. Dre)ことアンドレ・ロメル・ヤング(: Andre Romel Young、1965年2月18日 - )は、アメリカ合衆国ラッパーミュージシャン音楽プロデューサー俳優実業家。ラップだけでなく、キーボードやドラムスの演奏もできる。
来歴

ヒップホップ・ミュージックの分野で影響力がある人物の一人と考えられている。1990年代初頭に、東海岸のDJ達がサンプリングのネタとしてジャズなどを使っていた(ジャズ・ラップの項を参照)のに対し、ドレーはPファンク等のファンクやソウルを使用し、ギャングスタ・ラップGファンクを誕生させた。これまでにグラミー賞を6回受賞し、エミネムや50セント、ケンドリック・ラマーなど多くのラッパーを担当したプロデューサーとしても知られる。また、ドレーはヘッドホンブランド「Beats by Dr. Dre」を設立し、2014年には、Appleに現金と株式の合計30億ドル(3000億円)でビーツを売却した。

1980年代前半、ロンゾらとエレクトロ・ラップ・グループワールド・クラス・レッキン・クルー(英語版)(World Class Wreckin' Cru)に加入し、音楽キャリアを開始した[1]1986年に、ドレーとワールド・クラス・レッキン・クルーのメンバーであるDJ・イェラ(DJ Yella)は、のちにギャングスタラップと呼ばれるジャンルを確立したラップ・グループ、N.W.A.にメンバーとして参加した[2]。1988年発表の「ストレイト・アウタ・コンプトン」は大ヒット・アルバムとなった。

当初NWAはギャングによるキワモノとして、さんざん非難されたが、アルバムが2枚連続ヒットしたことで、徐々に評価されるようになっていった。N.W.A.は人気の頂点にあったが、N.W.A.とそのレーベルであるルースレス・レコード(Ruthless Records)の創設メンバーであるイージー・E(Eazy E)との不和により、1991年に脱退、シュグ・ナイトと共にデス・ロウ・レコード(Death Row Records)を設立した。

1992年春に初のソロ・シングル「ディープ・カバー(Deep Cover (AKA 187))」を発表した。このシングルは、MCスヌープ・ドギー・ドッグ(現スヌープ・ドッグ)との共演の始まりとなった。スヌープは、1992年発表のドレーのソロ・ファースト・アルバム『ザ・クロニック(英語版)』でも大々的にフィーチャーされた。翌1993年には「ナッシン・バット・ア・G・サング(Nuthing But A 'G' Thang)」が大ヒット[3]。続いて「ファック・ウィズ・ドレー・デイ(**** Wit Dre Day (And Everybody's Celebratin'))」、「レット・ミー・ライド(Let Me Ride)」などのヒット・シングルを生み出し、マルチ・プラチナ・アルバムとなり、歴史上最も売れたヒップホップアルバムの一つとなった。グラミー賞において2部門にノミネートされ、ベスト・ラップ・ソロ・パフォーマンス賞を獲得した。

1993年、ドレーはスヌープ・ドッグのデビュー・アルバム「ドギー・スタイル(Doggystyle)」をプロデュースした。同アルバムは、初のビルボード・チャート1位デビューという大ヒットを記録した。

1996年、テディ・ライリーと制作したブラック・ストリートの「ノー・ディギティ」が大ヒット。同年、2パック、ロジャー・トラウトマン共演の「カリフォルニア・ラヴ(California Love)」をプロデュースし、自らも客演することで大ヒットさせた。しかし、同年の終わり、2パックが死亡し、シュグ・ナイトが脅迫罪に問われて逮捕されたことにより、デス・ロウの存在が危うくなった。これを受けてドレーは同レーベルを脱退、自らの手でアフターマス・エンターテインメント(Aftermath Entertainment)を立ち上げた。それと同時に発表されたアルバム『ドクター・ドレー・プレゼンツ?ジ・アフターマス』は、アフターマスと契約した新人の曲を含むコンピレーションで、ドレー自身のヒット・シングル「ビーン・ゼア・ダン・ザット(Been There, Done That)」も収録されている。同曲は、ドレーがギャングスタ・ラップへの決別を表現していることが特徴的な曲であった。アルバムはプラチナムとなったが、ドレーとしては商業的にも質的にも失敗作であった。

1997年ナズ、フォクシー・ブラウン、AZ、ネイチャーらが参加したアルバム『ザ・ファーム(The Firm: The Album)』に収録された数曲をプロデュースした。このアルバムもプラチナムとなったが、同様に批判的な評を受けた。アフターマスの転機は、ドレーがデトロイトのラッパー、エミネムと契約した1998年に訪れた。翌1999年、エミネムのメジャー・デビュー・アルバム『ザ・スリム・シェイディ LP』、続く2000年に『ザ・マーシャル・マザーズ・LP』をプロデュースし、大ヒットさせた。2002年発表の『ザ・エミネム・ショウ』では、エミネム自身のプロデュースが増えているが、2004年発表の『アンコール』、2009年発表の『Relapse』では再びドレーのプロデュース曲が増えている。

1999年、ドレーの2作目のアルバム『2001』を発表、デヴィン・ザ・デュードやヒットマン、スヌープ・ドッグ、エミネムなどが、数多く参加している。2000年、『ザ・マーシャル・マザーズ LP』と『2001』における業績で、グラミー賞のプロデューサー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。これらのアルバムは、深く豊かなベースラインに高音のピアノ弦楽器のメロディを重ねるという、その後の楽曲の方向性を示唆した。このスタイルは、ドレーのプロデュースの、イヴの「レット・ミー・ブロウ・ヤ・マインド(Let Me Blow Ya Mind)」、バスタ・ライムズの「Break Ya Neck」、メアリー・J・ブライジの「ファミリー・アフェアー(Family Affair)」などの各曲に活かされている。『SET IT OFF』、『ザ・ウォッシュ』、『トレーニング デイ』などの映画にも出演。彼自身は後に役者になるつもりは無かったと語っている。ノクターナル(Knoc-turn'al)をフィーチャーした「バッド・インテンションズ(Bad Intentions)」は、『ザ・ウォッシュ』のサウンドトラックに収録されている。同サウンドトラックでは、他に「On the Blvd.」、「The Wash」という曲で、スヌープ・ドッグと競演している。

2003年、50セントのメジャーデビューアルバム『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン(Get Rich Or Die Tryin')』をプロデュースし、ヒットさせた。同アルバムからは、「イン・ダ・クラブ(In Da Club)」が大ヒットし、第46回グラミー賞において5部門にノミネートされた。2005年には、ゲーム (ラッパー)のメジャーデビューアルバム『The Documentary』もプロデュースし、ヒットさせた。

2010年末、『Detox』からの先行シングルとして、"Kush feat. Snoop Dogg & Akon"を発表。


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