ドゥーカス王朝
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ドゥーカス王朝(ドゥーカスおうちょう、Doukas, ギリシア語表記:Δο?κα?)は、東ローマ帝国中期の王朝(1059年 - 1081年)である。女系の子孫コムネノス・ドゥーカス家はエピロス専制侯国を13世紀に建国し、その傍系はテッサリア尊厳公国の君主となった。12世紀以降、「ドゥーカス」の姓が、ドゥーカス家や後のエピロス専制侯家との血縁関係を示すためによく用いられるようになった。

それら分家と皇帝家の関係ははっきりしておらず、同時代の文献からは異なる「ドゥーカス家」がいくつか見られる。「ドゥーカス」のコグノーメンを持つ複数の家系を、一つの大きな家系とみなしているとする見方もある[1]
歴史
起源

ドゥーカス家の起源については詳しいことはわかっていない。ニケフォロス・ブリュエンニオス(子)により触れられた後世の伝承では、ドゥーカス家は4世紀にコンスタンティノープルに移住し、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の親族でドゥクスとしてコンスタンティノープルの支配者となったされる人物の子孫とされている。しかしこの伝承は同家が帝位に就いたとき、11世紀の宮廷年代記編者により一族を美化するために創作されたとみられる[2][3]。実際のところ、家名は比較的一般的な軍における地位であるdoux(ドゥクス)から来ていると考えられているが[4]、同家の起源については不明である。アルメニア起源の可能性にも触れられることがあるが、一族は北部アナトリアのパフラゴニア出身のギリシャ人であることはほぼ確実のようであり、一族はそこに領地を持っていた[3][5]
10世紀初頭のドゥーカス家アラブ人による捕囚から逃亡するコンスタンティノス・ドゥーカス。追っ手を遅らせるために金貨を投げている。『スキュリツェス年代記(マドリード・スキュリツェス)』のミニアチュールより。

一族で最初に歴史上に現れるのは9世紀半ばのテオドラ(テオフィロスの皇后)の摂政時代(842年 - 855年)に、パウロ派を東方正教に改宗させるために派遣された人物である。その人物は「Douxの息子」とのみ知られているが、ヨハネス・スキュリツェスはその名をアンドロニコスと書き入れている。これは、おそらく後述するアンドロニコス・ドゥーカスと混乱していると考えられるが、この名は現代の文献にも用いられている[6][7]

この一族で最初に有名になったのは、10世紀初頭の(文献には通常「Doukas」よりも古体の「Doux」として現れている)アンドロニコス・ドゥーカスおよびその息子のコンステンティノス・ドゥーカスである。

両者とも皇帝レオーン6世の時代(886年 - 912年)に高位の軍司令官にあった。904年頃に、アンドロニコスは反乱に加わって敗北し、バグダッドに逃亡し、そこで910年ごろ殺害された。コンスタンティノスは生き延び、再び高官に返り咲き、スコライ軍団司令長官(ドメスティコス・トーン・スコローン)となった。しかし、コンスタンティノスは913年6月にクーデターに失敗し、息子グレゴリオスと甥のミカエルとともに殺された[8][9]

彼らの死、コンスタンティノスの下の息子ステファノスの去勢と追放、および917年のカタシルタイの戦いにおけるニコラオス・ドゥーカス(関係は不詳)の死を以って、東ローマの文献から最初のドゥーカス家の記録は姿を消す。12世紀の歴史家ヨハネス・ゾナラスが記録しているように、このドゥーカス家は断絶し、後のドゥーカス家はこの10世紀の一族の女系の子孫と考えられる[6][8][10]
バシレイオス2世治世下のリュディア=ドゥーカス家

10世紀末にかけて、次の「ドゥーカス家」があらわれるが、しばしば「リュドイ(Lydoi)」と記されている。これは「リュディア人」の意で、一族の起源がリュディアであることからであろう。それはアンドロニコス・ドゥクス・リュドスとその息子クリストフォロスとバルダスで、後者はMongos(しわがれ声)というあだ名で知られている。アンドロニコスの名前の中のドゥクスが姓なのか軍における地位なのかは不明である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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