(国旗)(国章)
国の標語: Non bene pro toto libertas venditur auro(ラテン語)
1426年頃のラグサ共和国の領土
公用語ラテン語(1492年まで)
イタリア語(1492年以降)
その他、クロアチア語やダルマチア語が話されていた。
宗教ローマ・カトリック
首都ラグーサ
元首等
xxxx年 - xxxx年不明
面積
1808年頃1,500km²
人口
1808年頃30,000人
変遷
成立1358年
第四回十字軍(ヴェネツィアの侵攻)1205年
ザダル条約(英語版)1358年5月27日
フランスによる侵攻1806年5月26日
ティルジットの和約1807年7月9日
イタリア王国に併合1808年1月31日
現在 クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
モンテネグロ
ラグサ共和国の城壁などの様子をそのまま伝えるドゥブロヴニク
ラグサ共和国(ラグサきょうわこく、イタリア語: Repubblica di Ragusa、クロアチア語: Dubrova?ka Republika、ラテン語: Respublica Ragusina、ハンガリー語: Raguzai Koztarsasag)は、現在のクロアチア共和国ダルマチア地方のドゥブロヴニク(イタリア語名:ラグーザ Ragusa)に存在した都市共和国である。 1358年にハンガリー王国から独立し、15世紀から16世紀にかけてアドリア海および地中海貿易で絶頂期を迎え、15世紀にはラグサから出る通商船が300艘、ラグサの人口は4万人といわれた[1]。1667年の大地震を契機に、そのころの地中海貿易の不振と相まって衰退が始まった。1806年にナポレオン軍に降伏し、1808年にはイタリア王国に併合された。ナポレオン没落後に開かれたウィーン会議では、オーストリア帝国の国力回復を目指す外相メッテルニヒが議長となっていたこともあり、ラグサ共和国の再独立は認められず、オーストリア領ダルマチア(ダルマチア王国)の一地方として、オーストリア帝冠領に併合された。以後、再独立することなく現在に至っており、1991年以降はクロアチア領となっている。 現在、ドゥブロヴニクにはラグサ共和国時代の城壁やその他の建物がほぼそのまま残っていて、世界遺産にもなっている[2][3]。また、1022年から1808年までのドゥブロヴニク共和国のアーカイブは2023年に世界の記憶に登録された[4]。
歴史
関連項目
海洋共和国(英語版
アンコーナ共和国
ヴェネツィア共和国
ジェノヴァ共和国
聖ブラシウス - ラグサの聖人
ガンダウリム - インドの都市。かつてラグサ共和国の植民地だったという説がある[5]
脚注^ 大日本文明協会『墺地利匈牙利』大日本文明協会事務所、1916年4月15日、370頁。