この項目では、王朝の呼称と、君主制時代の近代アフガニスタンの概要について説明しています。狭義のドゥッラーニー朝(1747年 - 1826年)については「ドゥッラーニー帝国」をご覧ください。
ドゥッラーニー朝(? ???????? ??????)は、18世紀にアフガニスタンにあった成立した王朝。1747年にアフマド・シャーがイランのアフシャール朝から自立して興した。ただし「ドゥッラーニー朝」の呼称が指し示す範囲についてはいくつかの定義がある。
アフマド・シャーはパシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合サドーザイ部族の出身であった。狭義のドゥッラーニー朝(1747年 - 1826年)は、アフマド・シャーとその子孫の王朝(サドーザイ朝)・国家(ドゥッラーニー帝国)を指す。
ドゥッラーニー部族連合による王朝という意味では、サドーザイ朝(1747年 - 1826年)と、続くバーラクザイ朝(1826年 - 1973年)をあわせてドゥッラーニー朝という。目次 「ドゥッラーニー」はパシュトゥーン語で「真珠の時代」を意味する。 1747年から1973年までの王朝について「ドゥッラーニー朝+バーラクザーイー朝」、「ドゥッラーニー朝(サドーザイ朝)+ドゥッラーニー朝(バーラクザイ朝)」、「サドーザイ朝+バーラクザイ朝」という3つの名称が鼎立している状況である。 王朝名できごと国名(国号)
1 名称
2 歴史
2.1 サドーザイ朝
2.2 バーラクザイ朝
3 歴代のシャー
3.1 サドーザイ朝
4 系図
5 参考文献
名称
ドゥッラーニー朝
(広義)ドゥッラーニー朝(狭義)=サドーザイ朝1747年ドゥッラーニー部族連合サドーザイ部族のアフマド・シャーがアフガンのシャーに推戴される。ドゥッラーニー帝国
(アフガン帝国)
バーラクザイ朝
(広義)バーラクザイ朝(狭義)
=ムハンマドザイ朝1826年ドゥッラーニー部族連合バーラクザイ部族のドースト・ムハンマド・ハーンがカーブルでハーンを称する。アフガニスタン首長国
(Emirate of Afghanistan
1835年ドースト・ムハンマド・ハーンが君主号をハーンからアミールに変更。
1926年アマーヌッラー・ハーンが君主号をアミールからシャー(王)に変更。アフガニスタン王国
ムサーヒバーン朝1929年王家の分枝ムサーヒバーン家のムハンマド・ナーディル・シャーがシャー(王)となる。
1973年王政が終了する
歴史 ドゥッラーニー朝の版図(紫)
サドーザイ朝詳細は「ドゥッラーニー帝国」を参照
1747年にイラン系遊牧民パシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合の一派ポパルツァイ部族(Popalzai
)のサドーザイ部族(英語版)がアフシャール朝から独立して建国。清がジュンガル部を完全に制圧すると中国と国境を接するようになり、清の皇帝から朝貢を要求される。以後清の朝貢国となる。またこの時代はインド征服も盛んに行い、弱体化したムガル帝国にも何度も侵攻し、一時期デリーを領有した。
外交面では好戦的な一面も見せたが、周辺の遊牧国家とは親善を図った。
バーラクザイ朝詳細は「バーラクザイ朝」を参照
1826年に王家が分裂し、分家が本家を滅ぼす形で王朝が交代し、バーラクザイ朝が創始される。
歴代のシャー
サドーザイ朝
アフマド・シャー・ドゥッラーニー(1747年 - 1773年)
ティムール・シャー・ドゥッラーニー(1773年 - 1793年)
ザマーン・シャー・ドゥッラーニー(1793年 - 1801年)
マフムード・シャー・ドゥッラーニー(1801年 - 1803年、1809年 - 1818年)
シュジャー・シャー(1803年 - 1809年、1839年 - 1842年)
スルターン・アリー・シャー(1818年 - 1819年)
アイユーブ・ハーン(1819年 - 1823年)
1819年以降は、事実上カーブルのみの支配者。
バーラクザイ朝君主についてはバーラクザイ朝を参照。 アフマド・シャー1
系図
ティムール・シャー