ドゥシャンベ
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ドゥシャンベ市
Душанбе
Dushanbe


市章

位置

位置
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ドゥシャンベ(Dushanbe)の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度32分12秒 東経68度46分48秒 / 北緯38.53667度 東経68.78000度 / 38.53667; 68.78000
歴史
建設1929年
改名1961年
旧名スターリナバード
行政
タジキスタン
 行政区画直轄市
 市ドゥシャンベ市
地理
面積 
  市域100 km2
標高706 m
人口
人口(2008年現在)
  市域679,400人
その他
等時帯UTC+5 (UTC+5)
夏時間なし
公式ウェブサイト : ⇒http://www.dushanbe.tj/

ドゥシャンベ(Душанбе)は、タジキスタン共和国首都2008年の人口は679,400人。都市名はペルシア語に由来し、土曜日の「二日後」の意味である。月曜に市場が開かれた村から急成長したためである。1961年までは、「スターリンの町」を意味するスターリナバード(Stalinabad)という市名であった。
歴史

ドゥシャンベの地は紀元前5世紀の遺跡も残る古くからの定住地であるが、19世紀まで町というより村という程度の規模でしかなかった。ロシア革命後、ボリシェヴィキの影響が中央アジアに及んでくると、タジク人ウズベク人反革命軍の拠点となる。ブハラ・アミール国(マンギト朝)の最後のアミールアーリム・ハーンはこの地に逃げ込んだ。(その後、カーブルに亡命)。1922年、ドゥシャンベは赤軍の手に落ちた。1925年には村から町へ行政上、昇格し、タジク自治ソビエト社会主義共和国の行政府が置かれた。

中央アジアのソビエト連邦領が民族境界によって各共和国に区分されると、1929年にドゥシャンベの一帯はタジク・ソビエト社会主義共和国となり、その首都に指定され、スターリンにちなんで「スターリナバード」となった。1961年ニキータ・フルシチョフスターリン批判で、ドゥシャンベの名に戻される。

ソ連時代、この地方は綿花の大生産地に変えられ、ソ連中から人々が移住させられた。タジク人も地方から流入、人口が急速に増える。

アゼルバイジャンで起きた反アルメニア暴動(スムガイトポグロム)から逃れた亡命アルメニア人がタジキスタンに移住する、という噂から、1990年、住宅難のタジク人の間で、ドゥシャンベ暴動が起こった。ミハイル・ゴルバチョフペレストロイカと時期を同じくしたため、南コーカサス中央アジアでの民族主義増大に繋がった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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