ドゥカーレ宮殿
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この項目では、ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿について説明しています。このほかの地にあるドゥカーレ宮殿については「ドゥカーレ宮殿 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ドゥカーレ宮殿(ドゥカーレきゅうでん、イタリア語: Palazzo Ducale、英語: Doge's Palace)は、イタリア語で、総督や○○公の宮殿のこと。英語からの訳で「ドージェ宮」と呼ばれることもある。

本記事においては、ヴェネツィアに所在するものについて記述する。ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿

ドゥカーレ宮殿(ドゥカーレきゅうでん)は、ヴェネツィア共和国の総督邸兼政庁であった建造物。ドージェ(総督)の公邸であった。サン・マルコ大聖堂に隣接した敷地に建つこのドゥカーレ宮殿は住宅、行政府、立法府、司法府、刑務所という複合機能をもった建物とされていた。中庭の北側面はサン・マルコ聖堂の外壁と接するようになっている(ヴェネツィア共和国が健在であった頃のサン・マルコ聖堂は「ドージェの礼拝堂」とされており、ヴェネツィア大司教の司教座教会(ドゥオーモ)ではなかった。サン・マルコ聖堂がヴェネツィア大司教の司教座教会となったのは、ヴェネツィア共和国滅亡後の1807年である)。

8世紀に創建され、12世紀まで宮殿として使われていた痕跡が残っている。1340年、ピエトロ・バセッジオ(1354頃没)とフィリッポ・カレンダリオ(1315?1355)のデザイン指揮の下で海に面した南側壁面から始められ、そして1424年からは狭い広場に面した西側の壁面へと継続された。聖堂と宮殿の間にはめ込まれた精緻な造形の主門(布告門)は建築家ジョバン・ボン(1355?1443)とその息子ボルトロメオ(1400頃?1464)によって1442年に作られたもの。そこにはフランチェスコ・フォスカリ総監と思われる彫像、不屈の精神、自制といった、聖堂のファサードで見られるような主題の彫刻が設置されている。1536年以降には投票の間の特徴的なバルコニーが西側の柱廊の上に追加された。この柱廊は1574年と1577年の火災後および19世紀の火災後に修復されている[1]。14世紀(1309年) - 16世紀にかけて現在の形に改修された。サン・マルコ広場に面して建造され、運河を隔てて対岸の牢獄跡と、ため息橋で結ばれている。外観はゴシック風のアーチが連続し、イスラム建築の影響も見られる細やかな装飾が施されている。

現在内部は、ヴェネツィア市民美術館財団(MUVE)の運営する美術館の一つとして公開されている。
ギャラリー
内装

黄金階段

4つの扉の間

ライオンの口

絵画

『老いと若さ』(1554 - 1556年頃、パオロ・ヴェロネーゼ

『祈りを捧げるグリマーニ総督』(1575 - 1576年頃、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ

ヴィーナスとアリアドネとバッカス』(1576年頃、ティントレット

三美神とメルクリウス』(1576年頃、ティントレット)

マルスを退けるミネルヴァ』(1576年頃、ティントレット)

『レパントの海戦の勝利を感謝するヴェニエル総督』(1581 - 1582年頃、パオロ・ヴェロネーゼ)

『ヴェネツィア称揚』(1584年、ティントレット)

『ヴェネツィア礼賛』(1585年、パオロ・ヴェロネーゼ)

天国』(1588年以降、ティントレット)

『東方三賢王の礼拝』(1600年頃、アントニオ・ヴァッシラッキ


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