ドゥカート(イタリア語: ducato、ハンガリー語: dukat、オランダ語: dukaat、ドイツ語: Dukat, Dukaten [du?ka?t(?n)]、英語: ducat [?d?k?t])は、中世後期から20世紀の後半頃までヨーロッパで使用された硬貨。同時期を通じて、多様な金属で作られた様々なドゥカートが存在した。ヴェネツィア共和国のドゥカート金貨は、中世のヒュペルピュロンやフローリン、または現代の英ポンドや米ドルのように国際通貨として広く受け入れられていた[1]。
初期ドゥカートルッジェーロ2世のドゥカート銀貨。片面には福音書を持ち、後光の差したキリスト像が描かれており、もう片面には、大きな十字架を持って向かい合うルッジェーロ2世とその息子のルッジェーロ公が描かれている。
「ドゥカート」という単語は中世ラテン語の"ducatus(「公爵の」や「公爵領の」、又は「公爵の硬貨」の意。)が語源である[2]。
こうした硬貨が初めて発行されたのは、シチリア王ルッジェーロ2世統治下のプッリャ公国(公爵領)であったと考えられている。1140年に彼は、キリスト像[3]と"Sit tibi, Christe, datus, quem tu regis iste ducatus(「キリストよ、汝が統べるこの公爵領を汝に捧げん」の意。)という文句が刻印された硬貨を鋳造した[4]。
ヴェネツィア共和国のドージェ、エンリコ・ダンドロはルッジェーロ2世の硬貨からデザインの影響を受けたドゥカート銀貨を導入した。しかし、ヴェネツィアのドゥカート金貨が次第に重要度を増した結果、「ドゥカート」という言葉はこれらの金貨のみを指す言葉となっていき、銀貨はグロッソ(英語版)と呼ばれるようになった[5]。 1200年代のヴェネツィアの貿易は、東方から買い付けた物品をアルプス以北で販売するという形態であった[6]。彼らはこの買い付けの際に東ローマ帝国の金貨を使用していたが、東ローマ皇帝のミカエル8世パレオロゴスが1282年のシチリアの晩祷と呼ばれる暴動を支援した結果、ヒュペルピュロンの価値は低下した[7]。これは、繰り返されるヒュペルピュロンの価値低下の一例に過ぎず[8]、1284年にヴェネツィア共和国大評議会は純金製の独自の硬貨を発行する事でこれに対応した[6]。 フィレンツェ共和国とジェノヴァ共和国はどちらも1252年に金貨を発行(フィレンツェのフィオリーノ金貨と、ジェノヴァのジェノヴィーノ金貨
ヴェネツィア共和国のドゥカート金貨
ドゥカート金貨はドゥカート銀貨に、突き詰めればビザンツの銀貨に由来する。表面には、ヴェネツィア共和国の守護聖人である聖マルコの御前でひざまずくドージェの姿が示されている。聖マルコは福音書を手にしており、ドージェにゴンファローネ(英語版)を授けている。左側の銘"S M VENET"は"Sanctus Marcus VENETI"(「ヴェネツィアの聖マルコ」の意。)の頭字語で、右側の銘"MICAEL STEN"はドージェの名前(ミケーレ・ステーノ(英語版))を表している。名前の隣には、彼の称号のDVXが示されている。裏面には、星々を背景に立つキリストの姿が楕円の枠内に描かれている。裏面の銘はルッジェーロ2世のドゥカートに刻印されているものと同様である[10]。
後継のドージェ達もドゥカートの鋳造を続け、手を加えたのは表面の彼らの名前だけであった。1400年代、ドゥカートの価値は銀貨換算で124ヴェネツィアソルドと安定していた。この事からドゥカートという単語は次第に、金貨そのものだけでなく、この量の銀貨を表す言葉としても使われるようになった。しかし、1567年のイングランド王国とスペイン帝国の衝突により金の価格は騰貴し、この均衡は崩された[11]。この時点で、ドゥカートは"ducato de zecca"(「造幣所のドゥカート」の意。)と呼ばれており、これが短縮して"zecchino"、更に転訛して"Sequinと呼ばれるようになった[9]。レオナルド・ロレダンは新たに2分の1ドゥカートを鋳造し、彼の次代のドージェであるアントニオ・グリマーニ(イタリア語版)は更に4分の1ドゥカートや105ドゥカートなどの多様な硬貨の鋳造を行った。こうした硬貨は全て1284年の元々のドゥカートのデザインや重量を受け継いで作られていた。西洋の鋳造貨幣において鋳造時期の刻印が一般的になった後も、ヴェネツィアは1797年のナポレオン・ボナパルトへの降伏まで日付の刻印が無いドゥカートの鋳造を続けた[12]。 コムーネ・ディ・ローマ
ヴェネツィア共和国のドゥカートの模造品
ヴェネツィア・ドゥカートの模倣品の殆どは、ヴェネツィアが買い付けで多くの金銭を使っていたレバントで作られた。聖ヨハネ騎士団の騎士たちは、表面に総長のデュードネ・ド・ゴゾンが聖ヨハネの前でひざまずく姿が描かれ、裏面にキリストの墓に座す天使が描かれたドゥカートを鋳造していた。しかし、彼の後の総長たちは、より正確にヴェネツィアのドゥカートを模倣する方が好都合だと考え、ロドス島やマルタ島でそうした模倣品の鋳造を行った[15]。ジェノヴァの商人たちは更に踏み込んだ模倣をしていた。彼らはヒオス島でドゥカートの模造品を鋳造していたが、それは技術的な精巧さのみでしか本物との区別が付かない明らかな贋物であった。こうした質の低い模造品は、貨幣の純度によって高い評価を得ていたヴェネツィアにとって問題であった。ミティリーニや、ポカイア、ペラなどの都市でジェノヴァの商人たちが鋳造したドゥカートが殆ど現存していない事実からは、ヴェネツィア人がこうした模造品を発見し次第溶かして処分していた事が窺われる[16]。
ハンガリー王国のドゥカートフェルディナント3世が描かれた100ハンガリードゥカート(1629年)