ドゥカティ
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「ドゥカティ」のその他の用法については「ドゥカティ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ドゥカティ・モーター・ホールディング S.p.A.
Ducati Motor Holding S.p.A
ドゥカティ本社
種類非公開会社
業種輸送用機械
設立1926年
創業者.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

アントニオ・カヴァリエーリ・ドゥカティ

アドリアーノ・カヴァリエーリ・ドゥカティ

ブルーノ・ドゥカティ

イブラヒム・エル-ラマウィー

本社ボローニャ イタリア
事業地域世界各地
主要人物会長:アブラハム・ショット
CEO:クラウディオ・ドメニカリ
製品オートバイ
生産出力53,004両 (2018年)
売上高882億円 (2018年)
営業利益62億円 (2018年)
利益61,000,000 ユーロ (2021年) 
親会社ランボルギーニ
子会社ドゥカティ・コルセ
ウェブサイトwww.ducati.com
Footnotes / references
[1]

ドゥカティ・モーター・ホールディング(Ducati Motor Holding S.p.A.)とは、イタリアオートバイメーカー。イタリアの自動車メーカーであるランボルギーニが直接所有しており、ランボルギーニの親会社はフォルクスワーゲン・グループが所有するアウディである。

以前はドカティとも表記された。1952年まで製造していたカメラのメーカーとしては一般的にデュカティと表記される。日本の自動車検査証には以前「ドカテイ」と「ドゥカティ」の2種類の車名コードが存在したが、2013年以降はドゥカティに一本化された[2]。「ドカ」と俗称される[3]
概要
創業からオートバイ製造までドゥカティ製ラジオ

ドゥカーティの一族は古代ローマ帝国まで遡る由緒あるイタリアの名家であり、ボローニャを拠点としルネサンス期から医学や技術の面で優れた人材を輩出した[4]。アントニオ・カヴァリエーリ・ドゥカーティは1880年頃から水力学と鉄道関係の発明家、技術家として工場を経営していた[4]。水力は発電機と密接な関わりがあり、ここから電機関連事業へと参入した[4]

アントニオの息子アドリアーノ・カヴァリエーリ・ドゥカーティ(Adriano Cavalieli Ducati )は電気に深い関心を持ち、グリエルモ・マルコーニの影響を受けて1924年にはアメリカ合衆国との交信に成功、無線通信や放送事業に大きな将来性を見い出し、1925年に兄弟のブルーノ・ドゥカーティ(Bruno Ducati )、マルチェッロ・ドゥカーティ(Marcello Ducati )とともに「ソチェタ・シェンティーフィカ・ラディオ・ドゥカーティ」(Societa Scientifica Radio Ducati )を設立、1926年には「ソチェタ・シェンティーフィカ・ラディオ・ブレヴェッティ・ドゥカーティ」(Societa Scientifica Radio Brevetti Ducati、SSRBD)と改名した[4]。巨大な工場をボローニャとミラノに建設、高品質な電子部品の大量生産に成功、1939年には従業員7000人の大企業へと成長した[4]。赤いドゥカーティのマークをつけたコンデンサーは時折古いイタリア電気製品の中に発見できる[4]。この当時、アイントホーフェンの小さな電球製造工場だったフィリップスから招かれて技術協力を約束、その後ドゥカーティの後押しでこの工場は世界最大の電気メーカーへの道を歩むことになった[4]

当初はラジオや無線の部品製造会社であったが、当時イタリアはベニート・ムッソリーニの政策により急速に工業化を進めており、また新しい技術に意欲的だったドゥカーティ兄弟は1935年にインターホン、1939年に電[蓄音機とラジオ、1940年に電気シェーバー、1941年に16mmフィルム映写機、1942年には電動計算機、と次々に新製品を発売した[4]。この他にもカール・ツァイスのパテントでレンズ、眼鏡、双眼鏡、オーディオアンプ、自転車と広い範囲の製品を販売した[4]

しかし第二次世界大戦により大きな被害を受け、産業復興公社(IRI)の支援を受けることとなった。クッチョロ

ちょうどその頃トリノにあったシアタは原動機付き自転車クッチョロ(Cucciolo、子犬の意)を発売してベストセラーとなっており、エンジンのOEM生産先を探していた。その事情を産業復興公社が知ってドゥカティを紹介し、1946年ドゥカティでエンジンを生産することになる。ドゥカティは1947年には販売権を獲得し、改良しつつ総計25万台以上を販売した。当時はピアジオベスパとイノチェンティのランブレッタがライバルで、優秀さをアピールするためレースに出場するようになった。

産業復興公社の元でドゥカティは「マイクロカメラ・ドゥカーティ」の製造を手掛けた。発売時期に関しては諸説あり、早い説では『メイド・イン・イタリー』など1938年とする記述もある[4]。『ドゥカーティ・ストーリー』中には1940年頃ベルギー支社がブリュッセルの見本市に出した展示の写真の中にカメラらしきものが写っているというが試作品の可能性もある[4]。マラヴォルティは『イタリアカメラ』中で1946年としている[4]。ジェームズ・マッケオンの本は1950年頃とする[4][注釈 1]。ソーニョとシンプレックスが知られ、どちらも一般的なカメラと逆で「カメラを構えて左手側」が巻き上げノブである。しかし過去にファシスト党政権に協力したとして市場でボイコットを受け1950年代初めに写真部門を閉鎖[5]、結果今日では珍品としてマニアに人気があり高価に取引されている。

会社が発展したため、1953年創立からの分野である通信機器部門とオートバイ部門の2つに会社が分割された。なお通信機器部門も ⇒ドゥカティ・エネルジアとして今日も存在するが、現在のオートバイメーカーとしてのドゥカティとの資本関係はなくなっている。
レース参加とオートバイ製品の歴史「ドゥカティ・コルセ」も参照

ドゥカティは比較的初期の段階からレース活動を積極的に続けており、レース活動で得たデータを活かして公道用市販車の開発に積極的に役立てるのもドゥカティの特徴の一つとなっている。他のメーカーでもレース活動から公道用市販車へのフィードバックは行なわれているが、公道用市販車がレース活動で使われている車両とこれほど密接な関係にあるのは珍しい。

1946年 - クッチョロ(Cucciolo、子犬の意)生産開始。50cc1.25馬力で最高時速50km/h。

1954年 - エンジン設計主任としてファビオ・タリオーニ(Fabio Taglioni )がFBモンディアルから転職、1955年3月にはカムシャフトをベベルギア駆動する100ccOHCエンジンを搭載した100ccグラン・スポルト・レーサー、愛称 マリアンナ (Marianna )を設計。

1956年 - 世界グランプリに参戦、125ccGP用レーサーにドゥカティとしては初めてデスモドロミック機構を採用。

1956年 - マークIIIシリーズに市販車として初めてデスモドロミック機構を採用。

1964年 - 5速ミッション採用。

1964年 - 後ろ側エンジンマウントの幅を拡げ、ミッション、オイルポンプが強化された。これ以降のエンジンはワイドケースと俗称される[注釈 2]

1970年 - 現在の主力商品である大排気量Lツインの元祖、750GT をミラノショーで発表。

1972年 - イモラ200マイルレースにて デスモLツイン750ccレーサー がデビュー戦でワンツーフィニッシュ。優勝はポール・スマート(Paul Smart )、2位はブルーノ・スパッジャーリ(Bruno Spaggiari )。
750SSイモラレプリカ

1974年 - 750GT にデスモドロミック機構を搭載しカウルを装着したスポーツモデル 750SS をイモラレプリカとして発表。単気筒モデルを製造中止。

1975年 - 750GT を大排気量化した 860GT を設計する際デザイナーにジョルジェット・ジウジアーロを迎え、クランクケースが角形になった[注釈 3]

1978年 - マン島TTレースで当時の強敵ホンダRCBを破ってマイク・ヘイルウッドの乗るNCRの 900SS が優勝した。

1979年 - マイク・ヘイルウッド・レプリカを発売。

1978年 - 伝統のベベルギア駆動ではなくカムシャフトをコグドベルト駆動する初めてのモデル 500SLパンタ 発売。以後 600SLパンタ、650SLパンタ と進化する。

1983年 - カジバと提携。

1985年 - 750F1パンタ 発売。同年マイク・ヘイルウッド・レプリカの最終モデル ミッレ が製造中止となり、ベベルギア駆動からコグドベルト駆動への世代交代が完了した。カジバに買収され傘下に入った。

1986年 - カジバの設計者マッシモ・タンブリーニにより設計されたパゾ発売。

1988年 - スーパーバイク世界選手権が始まり 851 で最初から参戦、2006年までの19年の間に12人の年間チャンピオンを輩出している。

1998年7月 - カジバ傘下からアメリカテキサスの パシフィックグループ 傘下に移った。

2003年 - ロードレース世界選手権の最高峰MotoGPクラスに参戦しホンダヤマハに次ぐ勝利数を挙げるメーカーとなっている。

2007年 - ワークス契約ライダーのケーシー・ストーナーとドゥカティ・マルボロチームがMotoGPクラスで年間優勝、ドゥカティ初の3部門(ライダーズ、コンストラクターズ、チーム)すべての制覇を成し遂げた。日本メーカー以外のマシンが世界最高峰のオートバイレースで年間優勝したのは1974年のMVアグスタ以来33年ぶり。MotoGPで出場していた車両(デスモセディチ)を基に一般公道走行可能にした車種が発売された。

2012年 - 4月18日、ドイツの自動車メーカーアウディはドゥカティを傘下に持つ投資会社インベストインダストリアル・ホールディングスから株式を取得し、同社を買収したと発表した。買収と同時にフォルクスワーゲングループ傘下となる。[6][7]

2022年 - フランチェスコ・バニャイアとドゥカティ・レノボチームがMotoGPクラスで年間優勝、2007年以来の3部門すべての制覇を成し遂げた。

製造販売する車種の特徴
Lツイン
過去には
単気筒エンジン並列2気筒エンジン搭載のモデルもあったが、ほとんどのモデルは90度V型2気筒エンジンを搭載している。他社の殆どのVツインと違い前バンクシリンダーをぎりぎりまで前輪に近付けエンジンの搭載箇所を低くしてある。そのため横から見ると“V”というよりアルファベットの“L”に見えることからドゥカティではこのエンジンをLツインと称している[8]。4気筒エンジン搭載機種については2018年発売のパニガーレV4のように通常のV4配置となっているが、点火間隔が70度というのが特徴となっている。
デスモドロミック
エンジンにデスモドロミックと呼ばれる強制バルブ開閉システムを採用しており、「デスモ」と略称される。ドゥカティでは1956年の125ccGP用レーサーに初めて採用され、市販車への採用は1968年マークIIIデスモシリーズが最初である。近年まで全てのモデルにデスモドロミック機構が搭載されており、ドゥカティを象徴するシステムと言っても過言ではなかったが、2021年の新型ムルティストラーダV4シリーズでは遂にデスモドロミックではなくスプリングバルブリターン方式が採用された[9]
ベベルギア駆動
オートバイ用エンジンでは一般にエンジン内部に組み込まれているチェーンによってオーバーヘッドカムシャフトを駆動する例が多いが、以前のドゥカティではベベルギアによって駆動していた。ベベルギアケースはエンジンの外観上の特徴ともなっている。
コグドベルト駆動
ベベルギア駆動に代わって500SLパンタで採用され、以後全てのモデルに採用された。自動車では非常に一般的な方法であるがオートバイ用エンジンでは珍しい。
鋼管トレリスフレーム
フレームは鋼管をトラス形状に組んで製作されている。なお、1199 パニガーレ[10]や2021年モデルのモンスター[11]など、トレリスフレームではないマシンも登場してきている。
カメラ製品の一覧

一般的なパトローネがフィルム室に入らず、フィルムだけを専用小型マガジンに詰め替えなければ撮影できない[4][5]。フィルムマガジンはスプールを除いてテッシナと互換性があり、スプールを交換するか加工すれば使える[4]。15枚撮り[4]。加工精度は極めて高い[4]。部品点数は驚く程少ない[4]。ボディーフレームは真鍮製で、割を使った金型によるダイカストにより製造されている[4]


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