ドイツ陸軍_(ドイツ連邦軍)
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ドイツ陸軍(ドイツりくぐん、ドイツ語:Deutsches Heerもしくは単にHeer)は、ドイツ連邦共和国の軍隊であるドイツ連邦軍陸軍。組織の位置としては、ドイツ連邦国防省における軍事機構分野(Militarische Organisationsbereiche)の軍隊(Streitkrafte)で軍備部門(Teilstreitkraft)にあたる。

本稿では他の時代や体制のドイツ陸軍と区別するため必要に応じて、ドイツ連邦陸軍、連邦陸軍、西ドイツ陸軍、統一ドイツ陸軍および新生陸軍もしくは新陸軍の呼称を用いる。
歴史
黎明期

ナチス・ドイツ政権崩壊後、ドイツ国防軍の地上軍はほぼ完全に消滅し、連合国軍によってドイツ国土は占領される。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の建国から1年以上たった1950年に、東アジア朝鮮半島では朝鮮戦争が勃発し、ヨーロッパにおける東西冷戦の最前線であったドイツも緊張状態におかれた。同じ1950年8月11日に欧州防衛共同体による欧州軍に西ドイツが参加することが欧州評議会にて確認される。しかし同月30日にフランス国民議会にて欧州防衛共同体条約(EDC条約)の批准は否決され欧州軍構想は頓挫した。同じ1950年10月26日にテオドール・ブランクコンラート・アデナウアー連邦首相によって連合軍関連問題特別担当に任命され、同年内に国防省の前身組織となるブランク機関が設立され再軍備に向けての準備が着々となされる事になる。西欧同盟で決定された兵力量については陸軍は6個歩兵師団、6個装甲師団と若干の直轄部隊で合計400,000名が必要とされた[1]

1951年3月に軽武装が施された人員約10,000名から成るドイツ連邦国境警備隊(BGS)が創設される。連邦国境警備隊の組織形成はしばしばヒンメロート覚書を根拠に再軍備を意図した人事などが実行される。例としては旧ドイツ国防軍の高級士官の手による新国軍の概略である「西ヨーロッパ国際部隊の枠組みによるドイツ派遣団」などがそれにあたる。覚書にあってはドイツ地上軍のため1952年までに約250,000名の大軍を組織することが目標とされた。新陸軍ではワルシャワ条約機構軍に対抗するため軍団司令部が6個と装甲師団が12個の編制が必要とされた。偽装の上で設立されたブランク機関は早くも1954年3月に新ドイツ陸軍の組織計画を提出する。そこでは6個歩兵師団、4個装甲師団、2個装甲擲弾兵師団が編成され西ヨーロッパ防衛に対するに西ドイツの貢献として供出する予定であった(「欧州軍」の創設を狙ったいわゆるプレヴァン・プラン)1954年9月28日のロンドン・パリ会議でのイギリスによる収拾案の提案後、同年10月23日にパリ会議にて西欧9箇国は西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)への参加と再軍備を正式決定し、パリ諸条約が調印された。これにより1955年5月9日に西ドイツはNATOに加盟する予定となる。

1955年5月のNATO加盟後に連邦議会の下でブランク機関は連邦国防省に改組された。1952年2月8日に連邦議会は西ヨーロッパ防衛への貢献を認められ、1954年2月26日にドイツ連邦共和国基本法が改正され防衛についての補足がなされ、1956年3月19日の7回目改正(連邦共和国基本法第7次補充法)で条文の修正と共に新しく条文が挿入される[2]。初代連邦国防大臣にはテオドール・ブランクが就任した。連邦国防省内では陸軍第5部として第5A指揮教育、第5B組織、第5C後方支援が設けられる。
陸軍第1次編制1955年から1959年

連邦軍と連邦陸軍の実際の歴史は、1955年11月12日にアンダーナッハで実施された初の徴兵が始まりとなる。連邦陸軍はその創設からドイツ敗戦と国防軍崩壊まで約10年間の空白期間があったが、新生陸軍については1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したドイツ軍人達やプロイセン改革の伝統を継承するとされた。しかし、長期間の空白のため軍事技術の欠落は深刻で、再軍備にあたっては旧国防軍幹部の力を必要とした。初代陸軍総監にはハンス・レッティガー陸軍中将が就任した。レッティガーはヒンメロート覚書の作成に関与していた。1989年の冷戦の終結までNATOとワルシャワ条約機構の対立は連邦陸軍の歴史を決定的なものにした。

連邦陸軍はその設立当初からNATOの指揮構造に組み込まれ、1959年までの陸軍第1次編制で12個師団を提供することになっていた。1966年まではソビエト連邦軍の通常戦力は大規模で、NATOの戦略は大量報復戦略(核戦略)に依存していた。1956年に連邦陸軍の最初の部隊と陸軍学校の建設が始まり、アンダーナッハにて7個教育中隊が編成される。1957年4月1日に連邦陸軍最初の徴集兵が招集される。計画された12個師団は歩兵、装甲、装甲擲弾兵の各種は6ヶ月間に2つのグループ毎に編成される事になっていた。しかしながら計画された12個師団はその全てが1959年までNATOの指揮下に入ったわけではなかった。1958年末時点では連邦陸軍の戦力は約100,000名を達成し、アメリカ合衆国から資器材が引き渡され、初めてM47戦車が配備される。

連邦軍の地上戦力は当初、連邦陸軍と第四の軍種として地域軍(郷土防衛軍)(ドイツ語版、英語版)が国防省の下にあった。このうち連邦陸軍はNATOの指揮構造に結合された。1957年に地域軍(郷土防衛軍)は「領土防衛局(Amt fur territoriale Verteidigung)」後に「領土防衛司令部(Kommando Territoriale Verteidigung)」に改称した組織の下におかれた。領土防衛司令部は連邦国防省直轄とされる。狭義の意味では領土防衛のために別系統の陸軍、海軍、空軍が設けられた。地域軍部隊は連邦政府(西ドイツ国家主体)の指揮下に置かれ、完全にNATOの指揮下には置かれてはいなかった。
陸軍第2次編制1955年から1970年

ソビエト連邦戦術核兵器の進歩は陸軍第1次編制の最終取得前に新たな問題を生じさせ、次期陸軍編制が始まる。連邦陸軍は戦場での戦術核兵器の被害を極限するため師団の規模を最大で約28,000名の将兵で構成し、師団にはより小型で機動的な部隊として旅団が編制に組み込まれる。装甲旅団には2個戦車大隊、1個装甲擲弾兵大隊、1個装甲砲兵大隊、1個補給大隊での編制が標準とされ、装甲擲弾兵旅団は1個戦車大隊、2個装甲擲弾兵大隊、1個装甲砲兵大隊、1個補給大隊で構成された。擲弾兵師団は装甲擲弾兵師団に改称される。1959年末時点では11個師団、27個旅団は編成されていた。野戦軍には1959年時点で約148,000名規模を有し、地域軍は1960年初頭に最初の非現役の猟兵大隊と警備中隊を編成する。1965年には整備計画中36個旅団のうち34個旅団が編成済みで、12個師団はNATO運用計画部に対し活動中であると報告された。1969年に連邦陸軍は約305,000名規模に成長した。

1967年にはNATOの正面防御ドクトリンは大量報復戦略から柔軟反応戦略(en:Flexible response)に転換し、防衛戦力の転換を促した。連邦陸軍はニュークリア・シェアリングの一環で1969年に核兵器投射能力を有する3個ロケット砲兵大隊と同能力を持つ2個砲兵大隊が新たに計画される。新兵器システム(国産兵器など)は陸軍第2次編制から調達される。戦車部隊にはアメリカ合衆国から供与されたM48戦車、後にレオパルト1戦車が配備される。装甲擲弾兵部隊には当初不祥事にまみれ能力も非効率的なSpz HS.30装甲車が調達され、以降は国産のマルダー歩兵戦闘車が配備される。さらに連邦共和国は銃器やロケット駆逐戦車、M113装甲兵員輸送車や輸送ヘリコプターUH-1を調達する。

1961年から領土防衛についての計画部隊は予備役兵で補充されていた。領土防衛の中央指揮権限については1969年に3つの新しい師団級地域司令部を編制し北部地域司令部、南部地域司令部、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地域司令部に分けられた上で、連邦陸軍の内部に統合され「野戦軍」(NATOの指揮下)と「地域軍」(ドイツ国家の指揮下)となる。
陸軍第3次編制1970年から1979年

1970年代にヨーロッパを射程圏に収める事ができるソビエト連邦軍準中距離弾道ミサイルの配備によって、1979年12月にNATO理事会はNATO二重決定(en:NATO Double-Track Decision)で対抗する事になる。同時にワルシャワ条約機構は部隊に必要な新兵器システムを導入する。NATOは量的優勢から質的優勢を強化・追求するようになる。また、ソビエト連邦軍空挺師団による後方地域に対する脅威に対しても是正処置を講じる必要性が生じた。

第2装甲擲弾兵師団第4装甲擲弾兵師団猟兵師団に改編し地理的条件に対応する。これらの部隊は対空挺任務のための予備として準備される。


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