ドイツ空軍
Luftwaffe
創設1956年
国籍 ドイツ連邦共和国
軍種空軍
タイプ軍事航空
任務航空戦闘
兵力26,787名(2023年)[1]
上級部隊ドイツ連邦軍
基地ガトウ
ドイツ空軍(ドイツくうぐん、ドイツ語: Deutsch Luftwaffeもしくは単にLuftwaffe)は、ドイツ連邦共和国の空軍である。
組織の位置としては、ドイツ連邦国防省連邦防衛軍における軍事機構分野(Militarische Organisationsbereiche)の軍隊(Streitkrafte)における軍備部門(Teilstreitkraft)にあたる。本稿では第二次世界大戦前のドイツ空軍や旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国家人民軍航空軍と区別するため、必要に応じて「(ドイツ)連邦空軍」、ドイツ再統一前は「西ドイツ空軍」、その後は「統一ドイツ空軍」の呼称を用いる。 第二次世界大戦でナチス・ドイツが敗北したことによりドイツの軍事力はいったん解体され、連合国による軍政を経て、西側三国(米英仏)占領地域には西ドイツ、ソビエト連邦占領地域には東ドイツが成立した。 前後して東西冷戦が本格化し、西側諸国は1949年に北大西洋条約機構(NATO)を結成。西ドイツも1950年のヒンメロート覚書で再軍備の検討を開始し、1954年にブランク機関 1956年1月9日に西ドイツ空軍最初の志願兵をネルフェニッヒ航空基地の空軍教育中隊に迎えたこの日が西ドイツ空軍の建軍とされる。同年、多数の機関が設立され、米国から供与されたF-84F、RF-84Fなど西ドイツ空軍初の航空機も獲得する。しかし、現代空軍の建設にとり必要なものが不足している事が明らかとなる。第二次世界大戦の終結から10年の経過は空軍の基礎をなす指揮通信機能と後方支援業務の発達、ジェット機および地対空ミサイルの普及と能力向上は大幅に進んでおり、新生空軍の重点的整備方針を核兵器運用に変更した。 西ドイツ空軍指導部は当初、北部と南部に配置されたNATO部隊である2個の戦術空軍を通じて指揮された。イギリス第2戦術空軍とアメリカ空軍の第4戦術空軍(ATAF)はそれぞれアーヘン=カッセル線を境に、第2は北部域を、第4は南部域を担当して分散配置されていた。総合空軍局、改称後の空軍局は中枢任務に対して責任を負っていた。 1957年に空軍の任務範囲を形成する。これによってレンツブルクに所在したドイツ連邦軍陸軍防空砲兵部隊は空軍のために地対空ミサイル部隊を編成した。最初の航空部隊はエルディング航空基地で第61輸送飛行隊が、最初の戦闘任務部隊はビューヒェル航空基地にて第31戦闘爆撃航空団が編成準備される。1958年に西ドイツ空軍最初の徴集兵が召集され、一年後に空軍ミサイル部隊(カウフボイレンの第11ミサイル群)に配属される。ミサイル部隊は戦術核兵器を搭載可能なマタドール地対地巡航ミサイルを装備し、1958年に初の戦闘機部隊である第71戦闘航空団(アールホーナー・ハイデ飛行場
歴史
建軍期
1960年にロッキード F-104スターファイター戦闘機のパイロットが初めて訓練され、そしてこの機種が購入されドイツ連邦軍におけるスターファイター時代が訪れる。1966年に同機の調達に絡んだスターファイター事件が起き、空軍総監ヴェルナー・パニツキ空軍中将が引責辞任する。スターファイター戦闘機のラストフライトは1991年にインゴルシュタット/マンヒンク航空基地で行われた。 1963年に連邦空軍最初の再編成が実施された。北部と南部から成る空軍グループ司令部の2つが設立され、これの隷下に空軍師団や支援部門が置かれた。特にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州についてはワルシャワ条約機構軍による侵攻でユトランド半島と切断される脅威から、第7空軍師団が編成された。この第7空軍師団については隷下部隊の配備状況から、空軍グループ司令部と並列する実質的に連邦空軍内の独立した空軍と化していた。 1956年以来、西ドイツ空軍の多数の人員は米国留学で教育訓練を受けていたが、既に民間航空路が発達しつつある西ドイツ領空の空域制限や対地攻撃用の演習場の不足などから、ますます北米大陸(米国とカナダ)での教育訓練の度合を強めていった。
最初の再編成