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出典検索?: "ドイツ観念論"
ドイツ観念論(ドイツかんねんろん、独: Deutscher Idealismus, 英: German idealism)またはドイツ理想主義は、近代の観念論(理想主義)の典型であり、プラトン哲学のイデアから由来している[1]。18世紀末から19世紀半ばに、ヒュームの流れを組むカント『純粋理性批判』への反動として、主にプロイセンなどドイツ語圏ルター派地域において展開された哲学思想であり、ロマン主義と啓蒙時代の政治革命に密接に関連している。
しかしながら、ヘルムホルツやシュレーディンガーといった自然科学者からは、懐疑的もしくは批判的に見なされている。(注:シュレディンガー『生命とは何か?』においては、カントの見方を痛烈に批判している。)
基本的には抽象的すぎる術語を使用するために、しばしば混乱を生じる学派である。
ポストカント派観念論(post-Kantian idealism)、ポストカント派哲学(post-Kantian philosophy)または単にポストカント派(ポストカント主義、post-Kantianism)とも呼ばれ[2]、主な論者はフィヒテ、シェリング、ヘーゲルであるが、併せてヤコービ、シュルツ(英語版)、ラインホルト、シュライアマハーの貢献も顕著である。
ヘーゲルの死後には老ヘーゲル派(ヘーゲル右派)、青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)などの思想に分岐していった。 ドイツ古典主義哲学やドイツ理想主義哲学とも呼ばれる(これらのような呼称にした場合、該当する思想家が若干異なることがある)。マルクス主義を国家理念の嚆矢とした国々では、ドイツ固有で且つ労働者外的な思索だという意味づけでドイツ市民的観念論(独: der deutsch-burgerliche Idealismus)と呼ばれたが現在この呼称は廃れている。後述するが、これらの名称は19世紀後半からの哲学史研究のなかで生じたのであり、ドイツ観念論に分類される思想家たちが、こうした名称を用いたわけではない。 イマヌエル・カントの批判哲学およびそれに対するフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービの批判に刺激され、神または絶対者と呼ばれる観念的原理、の自己展開として世界および人間を捉えることをその特徴とする。フランス革命の行動性に比して、宗教的観照という穏健さにある。プロテスタント神学に近接している。哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリング、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルのほかカール・レオンハルト・ラインホルト、フリードリヒ・ヘルダーリン、カール・ヴィルヘルム・フェルディナント・ゾルガー、神学者フリードリヒ・シュライアマハーがドイツ観念論の主要な論者とみなされる。 なおカント自身がドイツ観念論に属するかどうかは、研究者により見解が分かれるが、カント哲学とドイツ観念論を分けて考える学者が多い。その根拠は、あるいはドイツ観念論に含まれる思想家がカントとはその時代に哲学的に対立関係にあったという哲学史的な事情、またカントが認識理性の対象ではないとした神(物自体)が、ドイツ観念論では哲学のもっとも重要な主題であり、知の対象とされる両者の哲学上の立場の違いに求められる。一方、カントにおいても物自体は実践理性の要請であって哲学体系の中におかれており哲学の主要な主題であること、さらにはドイツ観念論の主要な論者はカントから出発して自己の体系を構築したことを重視し、ドイツ観念論の初めにカント(のコペルニクス的転回以降)をおく哲学史家もいる。これに対してドイツ古典主義哲学は、カントとドイツ観念論の連続性を重視し、カントを含む呼称である。 「ドイツ観念論」期と呼ばれていた時代の人々は、自らの哲学をドイツ観念論とは呼んでいなかった。「ドイツ観念論」という呼称は、20世紀初頭の新カント学派(Neukantianismus)や新ヘーゲル学派の哲学史の学者達(リヒャルト・クローナーやニコライ・ハルトマンなど)が、これら一連の思想家の総称として「ドイツ観念論」として紹介したことにより、普及したものである。この名称は、同時代の哲学史家のローゼンツヴァイクが1917年に発見し「ドイツ観念論の最古の体系プログラム」(独: Das alteste Systemprogramm des deutschen Idealismus)と呼んだ著者不明の哲学的断片(1796年から1797年の間に筆記)に拠っている。この名称自体は草稿の本文にはなくローゼンツヴァイクが付したものである。 なお、この断片の著者については幾つかの説がある。断片自体はゲオルク・ヘーゲルによって書き写されたものである。ローゼンツヴァイクはこれをフリードリヒ・シェリングのものであるとした。しかしのちに筆者としてヘーゲル、ヘルダーリン、集団筆者説などが提唱され、どれも決定的な説とはなっていない。草稿の内容は上に挙げた三人の思想と大きく関わっているものの、フィヒテとは関わりが薄く、その点から「ドイツ観念論の最古の体系プログラム」という名称の妥当性にも疑問がある。たとえば体系草稿は倫理学と美的なものの結びつきを要求し、民衆に与えられるべき哲学的な「新しい神話」の創出を哲学の目標とするが、フィヒテにはそのような美的なものへの関心と要求は薄い。 このようにドイツ観念論者と総称されている思想家の中でも、その内容は思想家によって様々に異なる。しかしカント哲学を出発点として「自己意識」や「精神」、「自我」などの精神的なもの、さらに言えば、前にも触れているとおり、その根底として観念的原理の自己展開をおき、それを絶対者あるいは神と呼んで、後者との関わりによって世界や人間の本質を捉える立場から説明しようとする「観念論」の立場の哲学であるという点では一致していると言える。 イマヌエル・カントの三批判書はしばしばカント哲学といわれる。これはすでにドイツ観念論の時代にもそうであった。しかしカントは自身の「批判」 を「哲学」とはみなさなかった。「批判」とは哲学の予備学として、人間理性によって遂行される限りでの哲学の前提としての理性(独: Vernunft)の性格を示すものである。カントはそれまでの哲学、すなわち形而上学を、人間理性の性格を踏まえない空虚な体系、「独断論のまどろみ」であると批判した。そして人間の認識のあり方とその前提としての超越論的認識を問い、また、そのような前提をもつ人間理性の対象となりうるものは何であるかについての考究に向かった。
概要
ドイツ観念論という呼称
カントからドイツ観念論へ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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