ドイツの政党ドイツ社会民主党
Sozialdemokratische Partei Deutschlands
党首(Vorsitzender)サスキア・エスケン
ラース・クリングバイル
幹事長ケビン・キューネルト
副党首クララ・ゲイウィッツ
ドイツ社会民主党(ドイツしゃかいみんしゅとう、ドイツ語: Sozialdemokratische Partei Deutschlands[14]、略称: SPD〈エス・ペー・デー〉[2])は、1863年に結成されたドイツの中道左派政党[4][5]。中道右派政党のドイツキリスト教民主同盟とともにドイツにおける二大政党の一つである[14]。進歩同盟加盟。 全ドイツ労働者協会 (ADAV,「ラッサール派」) と社会民主労働者党 (SDAP,「アイゼナハ派」) という2つの社会主義者政党が1875年のゴータ大会において合同して創設したドイツ社会主義労働者党 (SAP) を前身とし、1890年に現在の党名に改名した[2]。1891年にマルクス主義に基づくエルフルト綱領[15]を制定し、第2インターナショナルの中心となるが、やがて社会改良主義的な日常的党活動とマルクス主義の革命主義の矛盾から修正主義派・中央派・急進左派に党内分裂した。1914年に第一次世界大戦が勃発すると戦争を支持したが、その方針を巡る対立から中央派の一部や急進左派が党を去り、彼らは独立社会民主党 (USPD) や共産党 (KPD) を形成することになる。 1918年11月のドイツ革命直前に政権に参加し、革命の中で社民党党首エーベルトが政権を掌握。労兵評議会の全権掌握(プロレタリア独裁)を要求する在野の急進左派勢力を武力で制圧して国民議会を招集し、当時世界で最も民主的と言われたヴァイマル憲法の可決を主導した。ヴァイマル共和政下では中央党(Zentrum)や民主党(DDP)とともに穏健左派・中道・リベラルの連立政権ヴァイマル連合
概説
第二次世界大戦後に西ドイツでも東ドイツでも再建されたが、東ドイツでは1946年に共産党に強制合併されてドイツ社会主義統一党(SED)となり、以降1989年の再建まで社民党は禁止された。西ドイツでは中道右派のキリスト教民主同盟(CDU)と並ぶ二大政党の一つとなり、1959年にはゴーデスベルク綱領を制定してマルクス主義の階級闘争と絶縁して階級政党から中道左派の国民政党へと路線変更した。1960年には北大西洋条約機構(NATO)による西側軍事同盟も容認の立場へ転換した。