ドイツ社会主義統一党
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ドイツ民主共和国政党ドイツ社会主義統一党
Sozialistische Einheitspartei Deutschlands
党章
書記長エゴン・クレンツ
成立年月日1946年4月21日
前身政党ドイツ共産党(KPD)
ドイツ社会民主党(SPD) [注釈 1]
解散年月日1989年12月16日
解散理由新党結成のため
後継政党民主社会党
本部所在地 東ドイツ
東ベルリン
人民議会127 / 500   (25%)(1986年6月8日)
党員・党友数226万979人[1]
(1989年)
政治的思想・立場極左
現実社会主義
共産主義
マルクス・レーニン主義
スターリン主義[注釈 2]
機関紙ノイエス・ドイチュラント
党旗
公式カラー   
国際組織コミンフォルム
(1947年?1956年)
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ドイツ社会主義統一党(ドイツしゃかいしゅぎとういつとう、ドイツ語: Sozialistische Einheitspartei Deutschlands,  発音[ヘルプ/ファイル] 略称:SED(エス・エー・デー))は、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)においてマルクス・レーニン主義を掲げた共産主義政党。東ドイツは形式的には複数政党制を採用していたが、事実上同国の支配政党としての地位を堅持していた(ヘゲモニー政党制)。後の左翼党の前身となる。ドイツ統一社会党と呼ばれる場合もある[注釈 3]
概要

ドイツ社会主義統一党(SED)はマルクス・レーニン主義を掲げた共産主義政党で、1946年10月にドイツソ連占領地区でドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民主党(SPD)が合併して成立した。

SEDはソ連軍の後押しを受けながら、事実上の一党独裁制ヘゲモニー政党制)を敷いて第二次世界大戦後の東ドイツを支配し、1968年には憲法第1条で公式に国家を指導する党と規定された。東欧社会主義諸国の共産主義政党の中でも特に親ソ連の立場が強かった。

長らく東ドイツの支配を続けていたSEDであったが、1989年ベルリンの壁崩壊をはじめとする民主化の過程の中で憲法第1条に定められた党の指導条項が削除され、支配政党としての役割を終えた。

1989年12月16日に社会主義統一党/民主社会党(SED/PDS)と党名を改めるとともに綱領からプロレタリア独裁などソ連型社会主義の要素を払拭し、更に翌年2月4日に民主社会党(PDS)と改称して1990年ドイツ民主共和国人民議会選挙に臨んだが、敗北を喫した。
党史
SPDとKPDの合併

第二次世界大戦後、ソ連占領地区ではナチス・ドイツによって解散させられた政党組織の再建が進められた。この時、生き残ったSPD・KPDの党員たちは自発的に共同組織の結成を進めていた。彼らには、左派勢力がSPD・KPDに分裂したためにナチスの台頭を阻止できなかった、という歴史的反省があったからである[2][3]。しかし、ソ連から送り込まれていたKPD党員による工作グループの隊長ヴァルター・ウルブリヒトはこれらの社共統一組織を解体し、SPDのソ連占領地区の幹部オットー・グローテヴォールらから出された統一組織結成案も拒否した。クレムリンからは、まずKPDの組織固めを優先せよという指示があったためである[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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