ドイツ民主共和国憲法
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ドイツ民主共和国憲法
Verfassung der Deutschen Demokratischen Republik

施行区域 東ドイツ
効力廃止
施行1949年10月7日
政体単一国家共和制半大統領制社会主義一党独裁
権力分立三権分立
立法行政司法
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ドイツ民主共和国憲法(ドイツみんしゅきょうわこくけんぽう、ドイツ語: Verfassung der Deutschen Demokratischen Republik)は、1949年10月に成立した当時のドイツ民主共和国(東ドイツ)の憲法法規。東ドイツ憲法と単に呼ぶ場合もある。
経緯1949年のドイツ民主共和国憲法冊子1968年の改正憲法に署名する、ヴァルター・ウルブリヒト国家評議会議長

1945年5月の第二次世界大戦の敗戦により、ドイツは英米仏ソによる分割統治が行われることになったが、このとき東側のソ連占領地域で憲法策定作業が進められた。1946年11月ドイツ社会主義統一党 (SED) が憲法草案を発表した後、委員会において若干の修正を加えて、1949年10月7日に成立、即日施行された。

当初は二院制の議会、連邦制大統領制などヴァイマル憲法の系譜を引くものであったが、1952年にはが廃止されて (Bezirk) へ再編され、1958年には上院に当たる参議院が廃止、ヴィルヘルム・ピーク大統領死後の1960年には大統領制を廃止して「国家評議会」が置かれるなどの改正が行われていった[1]

1968年4月6日に全面改正され、第1条に「ドイツ民主共和国はドイツ民族の社会主義国家である(Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat deutscher Nation.)」「労働者階級とマルクス・レーニン主義政党(社会主義統一党)の指導の下に置かれる(党の指導性)」と規定され[2]、社会主義国の憲法としての色彩を強めたものになった。

1974年にも憲法を大改正し、ソビエト連邦との「恒久的同盟関係」を強め[2]た。

1989年10月東欧革命のうねりの中でエーリッヒ・ホーネッカー政権が倒れ、東ドイツの民主化が始まると、12月には社会主義統一党の指導性を定めた第1条の規定が削除された。1990年4月には円卓会議によって新憲法案が採択された[3]が、初の民主的選挙で東西ドイツの早急な統一を訴えるドイツ連合(キリスト教民主同盟を中心とした保守連合)が勝利するとこの改憲案は立ち消えになり、代わって1990年7月22日の憲法改正で州が復活、8月23日には人民議会は1990年10月3日を以て西ドイツ基本法の適用を受け入れると決議、31日に東西ドイツの統一条約が締結された[4]

こうして、1990年10月に東西ドイツが統一され、旧東ドイツも旧西ドイツのボン基本法を主流とした現在のドイツ連邦共和国基本法が適用されるようになった。
編成

1968年4月6日制定、1974年10月7日改正版
前文

ドイツ労働者階級の革命的伝統を引き継ぎ、かつ、ファシズムからの解放を拠り所としつつ、ドイツ民主共和国の人民はわれわれの時代の歴史的発展のプロセスに合致して社会=経済的、国家的及び国民的自己決定を求める権利を実現し、かつ、発達した社会主義社会を形成した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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