ドイツ哲学
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ドイツ現代思想(ドイツげんだいしそう)は、近世の後のドイツ哲学ないし思想のこと。
概要

ドイツの哲学史の通説では、古代中世・近世・現代と大きく時代を四つに区分する。近世哲学の完成者はゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルとされ、その歴史哲学がドイツ圏に与えた影響は以後の流れを決定付けた。ヘーゲルの進歩主義的な歴史哲学に、科学的な史料批判に基づく反論を加えたのは歴史学の祖レオポルト・フォン・ランケであった。歴史学が一般人の教養となっていく時代は、やがて歴史主義を生んだ。ヘーゲル以降にヘーゲル哲学を承継し、これを発展的に乗り越えようとした潮流と、ヘーゲルを批判し乗り越えようとして発生した潮流に大きく分かれる。彼の死後左右に分裂したヘーゲル学派と、ヘーゲル左派から生まれたマルクス主義は前者に位置付けることができ、アルトゥル・ショーペンハウアーフリードリヒ・ニーチェセーレン・キェルケゴールを先駆者とする生の哲学は後者に位置付けらことができる。新カント派エトムント・フッサール現象学は、生の哲学の問題提起を重く受けとめつつも、当時の科学の飛躍的な発展を背景に、新たな学問の基礎付けを目指した。ドイツには、ヘーゲルと並び立つフリードリヒ・シュライアマハーに始まり、ヴィルヘルム・ディルタイが承継した解釈学の伝統がある。フッサールの弟子マルティン・ハイデッガーは、現象学と解釈学を統合し、哲学史の解体を試みた。また、彼の基礎的存在論がきっかけに、ルネ・デカルトイマヌエル・カントに起源を有する近代的な認識論に傾倒してた流れから存在論が復権する。戦後、ヘーゲルの弁証法を基礎に、マルクス主義哲学と科学を統合し、非合理的な社会からの人間の解放を目指すフランクフルト学派批判理論が英米圏の分析哲学を実証主義であると批判して対立していたが、1960年代のいわゆる「実証主義論争」を経て分析哲学の研究成果を受け入れる流れができた。このような流れのいる者として、カール=オットー・アーペルらがいる。もっとも、このような流れの中にあっても、ハンス・ゲオルク・ガダマーのようにあくまでドイツの哲学的伝統に足場を置き研究を続けるものも多数いる。
ドイツの哲学的伝統

近代化において、イギリス・フランスに後れを取ったドイツの政治的・経済的事情はドイツ哲学の伝統を規定している。中世以来のゲルマン的伝統に対する誇りと近代的な先進国に対する憧憬という二律背反は、ドイツの思索を観念的・抽象的なものとするとともに、ロマン主義的・理想主義的なものとし、ドイツ哲学はきわめて内面的であるという特徴を有している。ここから、ドイツ哲学の宗教的性質について言及されることがある。それは、ジョン・ロック以来の経験主義の伝統から中庸を旨するイギリスとも、オーギュスト・コント以来の実証主義の伝統から明晰を旨とするフランスとも異なり、しばしば非ドイツ圏から特殊ドイツ的と呼称されることもある。
ヘーゲル学派の成立と分裂ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770年 - 1831年)は近世哲学の完成者とされる。

ヘーゲルの哲学が批判し、超克を目指したのはカントの哲学である。カントは、デカルト的な主観・客観の二項対立を前提に、厳密に現象物自体を区別し、大陸合理論とイギリス経験論を統合したのであるが、ヘーゲルは、『精神現象学』(1807年)において、直接的な意識から始まり、即自から対自、存在から絶対的知識へ発展し、現象の背後にある物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を明らかにした。彼によれば、「精神」は単なる人間の主観ではなく、世界史の過程を通して絶対的精神へと自己展開してゆくことになる。人類の歴史は、絶対精神が弁証法的に発展し、奴隷的な状態を脱し、自由を獲得する過程でもあり、理性が自然を克服し、原始的な宗教から啓示宗教が支配する社会を経て自由な国家が成立することによって歴史は終わるとした。ヘーゲルは、根源的一者の自己展開というドイツ中世のネオプラトニズム的な神秘主義を下敷きに、弁証法という論理学、認識論という当時の近代的な哲学概念を用いて、近代的で理性的な主体である個人を前提に、民族を統合した自由な国家の成立の必然性を説くという進歩的主義な歴史哲学を主張したのである。それは隣国フランスの発展に憧憬を抱きつつも、諸々の領邦に分かれ統一を果たせないでいた当時のドイツ圏の政治事情を背景に支えられたドイツ特有の特徴をもった理論ともいえる。ヘーゲルの哲学体系は、第一哲学たる形而上学を頂点としてすべての学問の統一を目指す百科事典的な壮大なものであり、そこでは、真のみならず、善・美といった価値さえ理性によって担保されるものとなったのである。

このような壮大な体系をもつヘーゲル哲学の影響は必然的にすべての学問分野に影響を与え、以後ドイツの学者・思想家はヘーゲル哲学に対するなんらかの賛否を明らかにする必要に迫られたのである。ヘーゲルに賛成するものはヘーゲル学派を形成したが、ダーフィト・シュトラウスの『イエスの生涯』(1835年)の出版をきっかけに、老ヘーゲル派ヘーゲル中央派青年ヘーゲル派に分裂していった。そのような流れの中から、19世紀の科学の発展を背景に、マルクス主義が台頭する。

ヘーゲルと同時代に生き、ドイツ現代思想の源となった先駆的な批判者は、カント理論の承継者を自認したショーペンハウアーと解釈学の祖シュライアマハーである。ヘーゲルはカントの物自体という概念を批判し、これを弁証法によって現象と統合したのであるが、ショーペンハウアーはこの区別を厳格に維持し、物自体は盲目的な意志であるとした。彼の理論は生の哲学に決定的な影響を与えるとともに、広くいえば新カント派によるカント理論の復権の先駆けとなるものである。シュライアマハーの解釈学は、後にディルタイにおいて生の哲学と合流し、ハイデッガーにおいて現象学と合流し、ガダマーによって哲学の一般理論に押し上げられてドイツの哲学的伝統の潮流の一つとなった。
19世紀 科学の世紀
科学的唯物論

19世紀は後に「科学の世紀」と呼ばれるほどの自然科学の発達した時代であり、K・モレスコット(1871?95)、J・フォークト(1822?93)、ルートヴィヒ・ビューヒナーらは、自然科学的な知のみを体系化することによって哲学は不要になると主張するようになった。哲学を頂点とする学問体系とヘーゲルが呼ぶ意味での哲学は、ここではもはや検討に値しないものとされるに至ったのである。
マルクス主義マルクス(1818年 - 1883年

ヘーゲル左派ルートヴィヒ・フォイエルバッハ経てマルクス主義が成立する。その出発点はヘーゲルの歴史哲学にある。マルクスエンゲルスはヘーゲルが観念の発展過程ととらえた歴史を唯物論的に「転倒」させ、物質の発展過程とみて、自然と人、対立する力と力が矛盾を克服し、新たな運動となって発展する事物の総体こそが世界なのであり、このような弁証法的な歴史の発展法則に従い、資本主義は転覆し階級なき社会が到来すると主張した。『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』を著してイェーナ大学哲学博士となり、『ヘーゲル法哲学批判序説』などを著していた、若き日の哲学徒マルクスに対して、主に経済社会の分析に取り組んで『資本論』を遺した後期のマルクスは、もはや自分が哲学者であると考えていなかったが、フランクフルト学派批判理論によって、そこにも哲学者としてのマルクスが再発見されることになった。


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