ドイツ同盟規約(どいつどうめいきやく、ドイツ語: Deutsche Bundesakte)は、ドイツ同盟を創設するために1815年に締結された諸邦間の合意である。別名、ドイツ同盟条約[注釈 1]。
沿革
ウィーン会議と普墺両国の地位ウィーン会議後のドイツ同盟 ドイツ同盟の境界(1815年) .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{} オーストリア帝国 プロイセン王国 ドイツ同盟の他の邦
ドイツ諸邦は、ナポレオン時代に整理されて、300以上の諸邦のうち、残ったものはわずかに39であった[1]。
ナポレオンのフランス第一帝政が解放戦争(ナポレオン戦争)によって敗れると、欧州の列強は、ウィーン会議を開いてその決算をなすこととなったが、ドイツ諸邦の将来の運命もまた、列強の間に置かれることとなった[2]。同時に、ドイツに関する諸問題は、重大な発言権を有するプロイセン王国とオーストリア帝国との間に根本的な意見の相違が見られた[2]。
プロイセンは、ドイツ諸邦を併せてひとつの連邦国家とし、少なくともマイン川以北の北ドイツ諸国においては、プロイセンが優越的な地位を占めることを欲した[2]。それゆえ、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインが1814年3月にパリ遠征軍の大本営において提出した草案においても、ドイツを連邦的政治団体[原語 1]とし、共同の憲法[原語 2]を有し、この憲法が規定する限り、各邦の主権は制限されるべきもの[原語 3]とした[3]。
これに対し、オーストリアにおいては、その西隣に強固な連邦国家、すなわち、プロイセンが何らかの優越的な地位を占める国家組織が存在することを欲しないのは、その自衛策として当然の要求であるから、ドイツ諸邦をできる限り強固ではない国際的団体とし、これを操縦すべき余地を残して置こうとするのがオーストリアの伝統的な国策であった[4]。それゆえ、オーストリアの宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒは、ドイツ憲法は放棄すべきであって、ただ、「条約と同盟との最も広い範囲の組織」[原語 4]をもって満足すべきであるとしていた[4]。なお、オーストリアは、ハンガリー、ガリツィア、クロアチア、北イタリア等の異なる民族を含んでおり、ドイツ民族の統一国家を作ることは、ハプスブルクの国家的結合を弱めるおそれがあったことから、統一ドイツ帝国の皇帝となることを欲しなかった[5]。
これより先に、プロイセンがナポレオンと対峙するためにロシア帝国との間で締結した1813年2月23日のカリシュ条約
(ドイツ語版)においては、「ドイツ人民の根源的精神より[原語 5]将来のドイツ憲法は生成せらるべし」と述べられていたが、バイエルン王国およびヴュルテンベルク王国を第六次対仏大同盟に加えるために、1813年10月8日のリード条約(ドイツ語版)および同年11月2日のフルダ条約(ドイツ語版)において、主権の無制限留保[原語 6]をプロイセンに約束させた[6]。その結果、主権の無制限留保が連邦国家の組織と矛盾するものであるがゆえに、カリシュ条約は、すでに骨抜きにされることとなった[7]。しかしながら、これは、大敵ナポレオンと戦って、浮沈の境にあったプロイセンにとっては、やむを得ない措置であった[7]。次いで、1814年3月6日のショーモン条約においては、「ドイツ各邦は独立にして、かつ、同盟的結合をなすべき[原語 7]」ことが約束された[7]。それゆえ、プロイセンの連邦国家主義は、オーストリアの国際団体主義に変更されたため、ウィーン会議においてプロイセンの主張が敗れたのは当然であった[8]
ドイツ委員会ジャン・ゴドフロイがジャン=バティスト・イザベイの絵画をもとに描いた現代銅版画(彩色)によるウィーン会議の代議員たち
ウィーン会議が開かれると、ドイツ問題は、オーストリア、プロイセン、バイエルン、ハノーファー王国、ヴュルテンベルクの5か国が組織する「ドイツ委員会」[原語 8]に付議されたが、この委員会に提出された多くの草案のうち、その主導力をなしたのはオーストリアおよびプロイセンの草案であり、上記の両国の見解の相違が草案にも表れることとなった[9]。ドイツ委員会において、オーストリアは、ドイツ諸邦を単なる国際法上の団体(国家連合)として構成しようとしたのに対し、プロイセンは、より強力な結合体として、連邦議会[原語 9]と連邦参議院[原語 10]とを設置しようとしていた[10]。しかしながら、プロイセンの提案は、オーストリアの対案によって一蹴され、ドイツ諸邦は、単なる国際法上の団体を構成することとなり、プロイセンが提案した二種の連邦機関、すなわち、連邦議会と連邦参議院とを設けて前者に若干の地方選出議員を加えるべきことは否決され、ただ、ドイツ各邦政府の代表者をもって組織する連邦議会のみが認められることとなった[9]。 このプロイセンとオーストリアとの妥協案は、1815年3月25日、メッテルニヒによって本会議に提出され、同年6月8日に確定した[9]。これがドイツ同盟規約である[11]。 ドイツ同盟規約は、プロイセンの連邦国家主義に対するオーストリアの同盟条約主義の勝利であって、解放戦争によってドイツ国民が描いたドイツ統一の思想は、全く破壊されてしまった[12]。1848年から1849年にかけてのドイツ革命は、すでにこのドイツ同盟規約に内在していたとみられている[12]。それゆえ、プロイセンは、ウィーン会議の終結にあたって声明を発し、「当分は無いに優るがゆえに、不完全な同盟を締結すべし」といい、また、ハノーファーは、「ドイツ国民の期待は一部分のみ実現された。数多の重要な案件が残留している」と声明を発している[12]。 このようなものが、解放戦争に対するドイツ国民の報酬であった[13]。すなわち、解放されたのはドイツ各邦の王侯のみであって、国民は少しも解放されることがなく、依然として封建的権力のもとに苦しまねばならなかった[13]。それゆえ、解放戦争は、王侯解放戦争[原語 11]に終わったのであった[13]。
ドイツ同盟規約の成立
概要