ドイツ・ポーランド関税戦争
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1923年のポーランドと周辺諸国

ドイツ・ポーランド関税戦争 (ドイツ語: Deutsch-Polnischer Zollkrieg ポーランド語: Wojna celna mi?dzy Polsk? a Niemcami)は、ヴァイマル共和制下のドイツ第二共和制下のポーランドの間に存在した政治的・経済的対立を指す。実際に両国間で戦闘行為が行われたわけではない。ドイツ国初代大統領フリードリヒ・エーベルトドイツ社会民主党)の没後まもなく勃発し、公式には1934年3月に終結した[1]
概要

対立のきっかけは、ポーランドが第一次世界大戦戦勝国として有していた、ドイツとの貿易における特権の有効期限が切れたことだった。そこでドイツ政府は関税の引き上げを試み、ポーランドの対独輸出の中心を担っていたポーランド石炭鉱業に打撃を与えた。報復として、ポーランドもドイツからの輸入品にかける関税を引き上げた[2]。ドイツはこの事件によってポーランドの経済を停滞させ、相手の譲歩を引き出そうとする政策をとった[1]。その際、ドイツ政府は報復主義的なポーランドへの領土要求もともに行った[3]。ポーランドは窮地に立たされたが、他の周辺諸国と新たな貿易関係を築いて耐えきった。その過程で1926年に5月クーデターが発生し、ユゼフ・ピウスツキ政権が誕生するきっかけにもなった。
背景

1918年、ポーランドは123年ぶりに外国による統治から解放された。しかし分割の影響が残ったり、第一次世界大戦、次いでポーランド・ソビエト戦争で国土が荒廃したため、新生ポーランドの経済状況は芳しくなかった。1919年の時点で、ポーランドの工業生産は戦争が始まった1914年時点と比べ70パーセントも減少しており、新政府にはこれを復興する難題がふりかかった[2]。ポーランド国内でも3つの旧宗主国が治めていた地域それぞれで状況が異なり、たとえば通貨制度が異なるなどの問題もあった。さらにポーランドは、バルト海における経済的な重要拠点でもある自由都市ダンツィヒを自国領に組み入れることに失敗していた。

また、戦前のロシア領ポーランドはロシア帝国の工業生産の15パーセントを担い、経済的にロシア本国と強く結びついていた[4]が、ロシア革命ソビエト連邦が成立したため、ポーランドは東方の市場をも失うことになった。オーストリア領だったガリツィア地方も、オーストリア=ハンガリー帝国崩壊により19世紀以来のオーストリアやボヘミアとの経済関係を失った。新生ポーランド最大の同盟者フランスはあまりに遠く、パリとの貿易関係もそれほど深くなかった。結果として、ポーランドの主要な貿易相手は西隣のドイツということになる。1925年の時点でポーランドの対外貿易の40パーセントをドイツが占めており、しかもポーランド西部の上シロンスクやヴィエルコポルスカポメレリアといった最も先進的な地域はいずれもドイツに強く依存していた。1925年まで、ポーランド領上シロンスクは産出石炭の半分をドイツに輸出していた。というのも、ポーランド国内の石炭需要がかなり低く、1913年時点のわずか35パーセントという水準だったためである[4]
ポーランド・ドイツ関係

第一次世界大戦後、ドイツは国土の東部にあたるポーゼン州西プロイセンをポーランドに割譲した。元をたどればこの地域はポーランド分割の際にプロイセンがポーランドから奪った地であり、大戦末期にはポーランド人の蜂起が発生していた。これ以外のポーランド要求地の行く末は、東プロイセン住民投票や上シュレージエン住民投票などといった住民投票にゆだねられることになった。こうしたドイツ領ポーランドには15万4000人のドイツ人入植者が暮らしており、これに加えて37万8000人のドイツ将兵が駐屯していた[5][6]ポーランド首相ヴワディスワフ・シコルスキ

戦間期初期、ドイツは第二共和制ポーランドを「一時的な国家」(ザイゾンシュタート)などと呼んでおり、両国間の緊張が高まっていた。ドイツは国際的に取り決められた両国間の国境を一切承認せず、1919年のヴェルサイユ条約締結後から、条約改定とポーランドに奪われた領土の奪還に向けて動き出した[7]。ドイツは領土回復を達するために、ポーランド領となった地域にドイツ人が居住していることを強調した[8]シロンスク(シュレージエン)や旧ドイツ領ポーランドに住んでいた「民族的ドイツ人」の中で、ポーランド人になることを選択したのはごく少数だった。大部分はドイツ市民権を取って土地を離れることを選択(opt)した。彼らの集団はオプタンテン(Optanten)と呼ばれた[9]。1924年には、ドイツの置かれた立場は内外ともに好転しつつあった。1924年8月30日のウィーン会談で、ドイツ・ポーランド領政府はポーランドに住みながらドイツ市民権を選んだドイツ人(オプタンテン)28,000人?30,000人と、ドイツに住みながらポーランド市民権を選んだポーランド人(オプタンツィ)5,000人を交換することで合意した[10][11]。ドイツは1926年に国際連盟加盟も果たし、ポーランドに対する優位を固めていった。

ポーランド政府は、厳しいポーランド市民権付与の基準を維持しようとした。戦後の混乱でポーランドに残っていたドイツ人(主に、ポーランド領内に駐留していた軍人や役人[6])は潜在的なオプタンテンと見なされた[12]。 ポーランドで締結された少数者条約(小ヴェルサイユ条約)で、ポーランド国内にいる旧宗主国の市民権保持者のうち、ポーランド市民権を拒否した者は、1923年1月10日までに国外退去するよう迫られた[13]。 ヴェルサイユ条約によって、ポーランドを含む戦勝国は、ドイツ人の資産を清算する権利を与えられていた[14]。ヘルムート・リッペルトは、ドイツがポーランドに住む少数派ドイツ人を、ポーランドへの報復主義的な目的のために政治利用したと述べている。1923年、ポーランド首相ヴワディスワフ・シコルスキは、精力的かつ早急にドイツ人の資産を清算し、オプタンテンを立ち退かせることで、新領土において続いてきたドイツ化を終わらせなければならないと主張した。しかしドイツ人住民は、ポーランド政府の西部国境に関する主張に不満を持っていた[15]。ポーランドの強硬姿勢に対し、ドイツ政府の反ポーランド感情にも火が付いた[15]ドイツ外相グスタフ・シュトレーゼマン

1925年、ロカルノ条約を結んだドイツ外相グスタフ・シュトレーゼマンは、東部国境を平和的に改変する自由をフランスから認められた[16]。またシュトレーゼマンは、ポーランド経済の安定につながるようなあらゆる国際組織への関与を拒否した。彼は駐ロンドン大使に向けて、「最終的なポーランドの再構成は、国境が我らの意に従って定まるまで、また我らの立場が十分に強まるまで待たねばならない」、また国境が定まるというのは「ポーランド経済・金融の不安が極度に高まり、ポーランドの政治力が無力と言える状態に落ちるまで」起こらない、などと書き送っている[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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