ドイツの歴史
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ドイツの歴史

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ドイツの歴史(ドイツのれきし)では、ドイツ歴史を述べる。
先史時代

旧石器時代にはネアンデルタール人、後にクロマニョン人ハプログループI2a (Y染色体)[1])が居住した。

新石器時代にはハプログループG2a (Y染色体)によって農耕がもたらされたと考えられる[2][3]

青銅器時代になると、ビーカー文化等が起こり、インド・ヨーロッパ語族に属すゲルマン祖語を話す人々が到達したと考えられる。彼らは現在のドイツ人の多数派を占めるハプログループR1b (Y染色体)に属していた[4]
古代「ゲルマニア」および「ゲルマン人」を参照

ドイツの歴史における古代は、先史時代から、ゲルマン民族の大移動が始まるまでの長期におよぶ。現在のドイツ南部では、およそ紀元前1300年から紀元前200年にかけて、ケルト人イリュリア人の前期鉄器文化であるハルシュタット文化(紀元前1300年から紀元前400年)が栄え、のちに西部では地中海地方の文化的影響をより強く受けたケルト人のラ・テーヌ文化紀元前500年から紀元前200年)に発展していた。ラ・テーヌ文化と同時期、ドイツ北部地域には鉄器文化のヤストルフ文化が形成され、紀元前5世紀ごろよりゲルマン語派が発生した。一方その東方ではイリュリア人と(さらに東方のチェルノレス文化の)元スラヴ人の混交により前期鉄器文化のポメラニア文化が発生し、これはのちによりスラヴ的なプシェヴォルスク文化に発展した。しかし、紀元前3世紀頃からゲルマン語派の人々はその範囲を少しずつを拡大し始め、北はスカンジナヴィア半島南部、東はバルト海南岸のポメラニア地方の細い地域を伝ってヴィスワ川河口域に達した。西や南では紀元前後の頃にはライン川ドナウ川流域で古代ローマ世界と接触するようになった。ローマ帝国ゲルマニアの戦いは、キンブリ・テウトニ戦争紀元前113年-紀元前101年)、ガリア戦争紀元前58年-紀元前51年)、トイトブルク森の戦い9年)、マルコマンニ戦争162年-180年)が知られている。

その後、しばらくはライン川とドナウ川がローマ帝国ゲルマニアの境界線となっていた。357年クノドマル王率いるアレマンニ族がローマ帝国領ガリアのアルゲントラトゥム(現ストラスブール)に侵攻したが、撃退された(アルゲントラトゥムの戦い)。

4世紀後半にゲルマン民族の大移動が始まると、ゲルマン語派か否かに関わらず「ゲルマン人」と総称された諸部族(大衆語がゲルマン語派の部族のほか、ブルグント人のような、大衆語がケルト語派と思われる部族や、ヴァンダル人のような、大衆語がスラヴ語派と思われる部族、の3種類がいた)が南ヨーロッパでそれぞれの部族国家を築き上げた。451年アッティラ率いるフン族ガリアに侵攻した(カタラウヌムの戦い)。被害を受けて勢力が弱まった西ローマ帝国は、フランク族(ゲルマン人の部族)の侵入を許すことになった。
中世

西ローマ帝国が崩壊し、その後にフランク王国が成立すると、ドイツ西部地域は徐々に中世封建社会へと移行していった。ドイツ東部地域ではプラハ文化が栄えたオボトリート族などスラヴ語派の強力な諸部族が勢力を拡大し、ドイツ中部のエルベ川に到達するとその西岸にまで版図を広げ、このあとの中世前期からフランク王国と真っ向から対峙することになる。
フランク王国

-843年:詳細は「フランク王国」を参照。カロリング朝フランク王国の勢力拡大

4世紀後半より、ゲルマン人ライン川ドナウ川を越えて本格的な移住を進め、旧ローマ帝国の領内にゲルマン人諸国家が成立した。その中で、5世紀末のガリアに登場したクロヴィスは、481年にフランク族を統一しフランク王国を建国、メロビング王朝を興した。フランク王国は、ローマ・カトリックを受容してラテン系住民からの支持を集めるなど、徐々に勢力を拡大させていった。ゴート戦争535年?554年)。751年に至り、臣下であった小ピピン(ピピン3世)が教皇の支持を得て王位につき、カロリング王朝が興る。

ピピン3世の子カール大帝は、ザクセン人(現在のドイツ北西部)を平定し、バイエルン(現在のドイツ南部)にも勢力を伸ばして西ヨーロッパ世界の政治的統一を推進しつつ、東方から侵入してきたアジア系遊牧民のアヴァールを撃退するなどの活躍をみせ、800年ローマ帝国皇帝の冠をローマ教皇から授かって古代における皇帝の理念的継承者となった。このことは、東ローマ帝国に対する西ローマ帝国の再興を意味した。また、カール大帝はアーヘン(現在のドイツ北西部)の宮廷にブリタニアの僧アルクィンを招いて古典古代ラテン語文化を復興させ(カロリング・ルネサンス)、古典文化、ローマ・カトリック、ゲルマン人の諸要素を加えた独自のヨーロッパ世界を築き上げた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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